遠く古くはロサンゼルスの日系社会のクルマ好きに頼まれてウィロースプリングスレースウエイでドライビングレッスンを開いた。SCCAクラブマンレースで南カリフォルニアリージョンで1位になって、SCCAライセンス講習会の講師を務めた。当時モントレーにあったジムラッセルレーシングスクールに掛け合って日本語クラスを作ってもらい、日本からの受講生の面倒をみながらインストラクターを兼任し。
『クルマの運転はね・・・』、『クルマは良くできた道具ですから使い方を覚えたほうが得・・・』、『タイヤのグリップというものは・・・』、『運転の上達に年齢は関係ありません』等々。どれだけ多くの方にお話ししたことか。
ユイレーシングスクールとして自前のカリキュラムを展開する一方、頼まれて運転講習会やドライビングレッスンを主宰している。2020年から始まったポルシェクラブ東京銀座のドライビングレッスンも今回で13回目。駐車場での基礎練習からハイスピードオーバルでの特訓。そしてサーキットを使ってのドライビングレッスン。
2025年1回目は原点回帰ということで、半径22m、直線160m、コース幅14mのYRSオーバルFSWロンガーを舞台に速く走る練習。2列縦隊でコーナリングを繰り返したり、車間距離5mで追いかけっこをしたり。あれだけやって誰も破綻しないのだから、これは近い将来オーバルレースを実現できる予兆なのかと嬉しくなってしまった。
とにかくみんな上手くなった。最後に「楽しかった人手を挙げて」と言ったら全員が手を挙げてくれた。クルマの運転について語り続けて来て良かったと心から思える瞬間。

快晴だけど風が強く寒さ厳しいドライビングレッスンに

ドライビングレッスンが終わって記念撮影をする段になって
「先生のクルマの前で撮りましょう!」ってなって
ユイレーシングスクールでは以下のカリキュラムの参加者を募集しています。運転にまつわる話をたくさんします。ぜひ参加してみて下さい。
・3月22/23日(土日) YRSツーデースクールFSW
・4月21日(月) YRS鈴鹿サーキットドライビングスクール
晴天なれど、とんでもなく寒くて風の強い日曜日。2回目のメガーヌRSウルティムをフィーチャーしたYRSドライビングワークショップFSWを開催。今さらながらにウルティムの動力性能の高さを実感。参加者が振り回しても音を上げないタフさは驚きだった。

YRSドライビングワークショップFSWはFSW駐車場P2で開催

参加者自身のクルマでスレッショールドブレーキングの練習をした後
参加者はメガーヌRSウルティムに乗り換えてフルブレーキングに挑戦!!

100キロ+からのブレーキング
こんなノーズダイブを何十回と繰り返したけど
何事もなかったように

14m幅のオーバルコースの直線部分に
20m間隔で置いたコーンの間でスラローム
テーマはできるだけ速く駆け抜ける

参加者全員にスポーツモードのMT2速固定で走ってもらった
後ろから見ているとフロントが回り込んだ瞬間
リアが明確に外側に移動するのがわかる
旋回中心がホイールベース内に収まっている証拠
4コントロールならではの動き
ユイレーシングスクールでは3月22/23日(土日)に開催するYRSツーデースクールFSWの2日目。FSWショートコースを終日走るセッションの間にメガーヌRSウルティムに試乗する機会を設ける予定です。ご自身のドライビングポテンシャルの向上にはうってつけの2日間です。メガーヌRSウルティムのような走りを実現されたい方はぜひご参加を。
・YRSツーデースクールFSW開催案内と申込みフォームへのリンクはこちらから
トレーラーバスってどんなバス? って聞かれたので探してみた。

第833回 記憶のかなたの2 に
登場したトレーラーバス
全長を延ばせるだけ伸ばしたトレーラーは
転回時にトラクターとの接触を避けるため
前部が丸くなっている
トレーラーと運転席が異様に近いのがわかる
運転手が運転する様が手の届くところに
※ウィキペディア:トレーラーバスから引用

画像を探していて
戦後のトレーラーバスには100人乗り
のものがあったことを知った
大量輸送の先駆けだったようだ
乗降口より2段高くなっている最前部は
トレーラーバスの特等席だった
トレーラーバスの記憶がかすかに残る自慢
※ウィキペディア:トレーラーバスから引用

少年が育った品川区大井出石町。少年が小学生の頃の話。静かな住宅地だったが近くにPXがあったのでカーキ色に塗られたジープが頻繁に走っていた。それ以外は八百屋さんのオート三輪とおわいやさんのバキュームカーを見かけるほどだった。
「第833回 記憶のかなたの2」から続く
学年が上がるにつれ少年の行動半径は徐々に広がっていった。原小学校よりずっと遠くにある原町のバス通りに面した小さなお店にも頻繁に通うようになっていた。
圭ちゃんがやっていた間口1間ほどの小さな模型店。天井からはたくさんの模型飛行機がぶら下がっていた。そこがボクと 解良さん との出会いの場だった。
リンゴ箱自動車 を卒業した少年が次に目を輝かせたのがライトプレーン。ゴム動力で空を舞う模型飛行機。作り方次第で滞空時間が長くなる手作りの飛行機。
なにしろ完成品は売っていない。何も知らない少年は、三澤模型からキットを買ってきてとりあえずの工具を揃えて設計図に従って作リ出す。
まずメタルと呼ばれるプロペラシャフトを通す部品に接着剤を点けて胴体の最前部につけて脱落しないようにタコ糸を巻き、糸に接着剤を塗って固める。当時はセメダインという透明な接着剤を使っていたっけ。プロペラを取り付けるのは最後にして、設計図を見て胴体の後ろのほうにキリで穴を開けゴム掛けを差し込みこれまたタコ糸でグルグル巻きにして接着剤を塗って固める。これで動力部分は完成。
飛行機だから翼が肝心なのだけど、これが上手くいかない。キットに入っている翼の骨格になる竹ひごは単純なU字型をしているだけで、一方が湾曲している設計図には合う訳がない。なす術なく最初はそのままU字型の竹ひごをニューム管に差し込んで主翼台に乗っけてタコ糸を井型に交差させて固定。尾翼も同様に組み立てるのだけど、固定する前に胴体に垂直尾翼を差し込むための穴をふたつキリでもんでおく。
胴体に主翼と尾翼と垂直尾翼を組み上げたところで竹ひごに翼紙を貼るのだけど、どうすればいいのかわからない少年は翼紙を竹ひごより大きめに切り、竹ひごより飛び出した部分に切れ目を入れて折り返して糊しろとして使った。完成したのは竹ひごの間で波打つ翼紙と折り返した糊しろが垂れ下がる美しくない翼。少年は、自分の作品が三澤模型で見たA級ライトプレーンとはずいぶん異なることを感じていた。
メタルにプロペラシャフトを通しビーズ、プロペラの順でシャフトに通りてからシャフトの先端をL字型に曲げる。次に脚に車輪を通してから脚の先端をL字型に曲げ、車輪が落ちないようにして脚の根元を胴体にタコ糸で固定する。ゴムの先端同士を結びひとつの大きな輪にしてから何回か折って重ねる。何重かになったゴムをS管に通してプロペラシャフトとゴムかけにかける。
ひととおり完成した自作のライトプレーンだったけど、少年は何かが違うと感じていた。地上高を稼ぐために良かろうと思って倒立させた戸車がすぐにもげてしまった リンゴ箱自動車 の記憶が蘇った。
なんとか圭ちゃんが作るライトプレーンのように作りたい。少年の三澤模型詣でが始まった。何も買わないのに店先で圭ちゃんの仕草に見入っていた。圭ちゃんも根負けしたのか少しずつライトプレーンを作るコツを教えてくれるようになった。それは全てが少年にとって驚きだった。少年は工夫することの大切さを目の当たりにした。
圭ちゃんは、台の上にろうそくを立て竹ひごを炙りだした。U字型の竹ひごは竹の表皮が外側にあった。そこを炙りながら両手の親指と人差し指で少しずつ曲げては伸ばし、たまに設計図に乗せて形を確認する作業が続く。時折り親指と人差し指を舐め、熱くなり焦げそうになった竹ひごに唾をつけて冷やす。それを繰り返すと単純なU字型をしていた竹ひごが、台の上に広げた大きなB級ライトプレーンの主翼の形ピッタリと重なっていた。
主翼を翼型にするために竹ひごの間に渡すリブの取り付け方も独特だった。少年は接着剤だけで切り欠きのあるバルサ製のリブを竹ひごにくっつけていたけど、圭ちゃんは薄い紙を小さな菱形に切って接着剤を塗り、竹ひごを包み込むようにしてリブの上と下を挟んでいた。曲がっている竹ひごにリブをくっつけるのだからズレやすい。その対策だった。
骨格ができあがって翼紙を貼る段階になって、圭ちゃんはかたく絞った濡れた日本手拭いを台の上に広げた。設計図より少し大きめに切り出した翼紙を手拭いの間に挟み、軽く掌でポンポンと。右手の親指と人差し指に糊をつけて竹ひごを挟み指をこすり合わせるように動かしながら翼全体にまんべんなく塗る。そうとはわからないほどに湿った翼紙を竹ひごの上に置き、翼紙をそおっと引っ張りながら竹ひごを包むように指で丸める。少年が余った部分の翼紙を切るのに鋏を使ったのとは違い、圭ちゃんは小刀を持ちだした。竹ひごからはみ出た部分を、竹ひごに小刀の刃を当てながら切っていく。確か「刃を立てると切れない。できるだけ寝かせて」と言っていた。すごく繊細な作業。
そう言えば、主翼や尾翼のニューム管を胴体にタコ糸で固定する方法も教わった。最初、自分なりにやった時はタコ糸をバッテンにかけて固定していた。しかしこれだと翼が揺れた。固定しているのがニューム管の中心の一点だったからだ。圭ちゃんはこうしてこうしてと、ニューム管を二点で支えるように井型に巻く方法を教えてくれた。
完成した圭ちゃん作のライトプレーンは美しかった。乾いた翼紙は皺もなくピーンと張り、まるで竹ひごと翼紙が同じ材質でできているかのようだった。
少年はライトプレーン作りに没頭した。八百屋さんが見える2階の窓辺で一生懸命圭ちゃんの真似をしようと頑張った。結果的に滞空時間を競う荒川の河川敷で行われた東京都の大会に出場するまでになった。
ある日。三澤模型でいつものように圭ちゃんの手の動きを追っていると、ライトプレーンより大きくて重そうで、翼が厚く胴体が太い飛行機を抱えた人が入ってきた。その人が 解良さん だった。
〈続く〉

解良さんとの再会は何十年ぶりだろうか
最後に会ったのはアメリカに行く前だったから
45年は経っている計算になるか
4コントロール装備のメガーヌRSウルティムをフィーチャーした2月のYRSドライビングワークショップFSW。カリキュラムはいつも通り午前中にスラロームと2種類のブレーキング練習。午後は設置したコーンのレイアウトを変更してオーバルコースを走ってもらった。
午前中参加者にはまず自身のクルマで、座学で解説しデモランで披露し最短距離でクルマを止める方法とスラロームをできる限り速く駆け抜ける方法を練習してもらった。次にそれなりにコツが飲み込めたところでウルティムに試乗してもらったのだけど、初めてのクルマなのに全員がけっこうブイブイいわせて走っていた。
ユイレーシングスクールのスラローム練習は20m間隔で置いたコーンの間を縫って走るのだが、いつものスクールではコーンを蹴っ飛ばす人が何人かいる。本人は蹴るつもりはないのだろうけど切り返しで初期アンダーステアを出してしまうと、内輪差が大きくなって後輪でコーンをはねてしまう。その点がウルティムの試乗でも心配だったのだけど・・・。
参加者はウルティムの動力性能に酔ったのか(!)、スポーツモードのマニュアルシフト2速で果敢にスラロームを攻めていた。それを真後ろから見ていてたいそう驚いた。あの速度だとコーンを踏むなと思っていると、これがひっかけもしないない。
前輪操舵車の場合は、極点に言うと、後輪付近にヨーモーメントの中心があって前輪がコーンから離れたところで右に左に半円運動するようなイメージ、つまりフロントが左右に振り子のように動く。当然前輪と後輪の軌跡は異なる。後輪は全員より内側を通るから、アンダーを出してフロントがまっすぐに行くと必然的に後輪は円運動の中心付近を通る。これがコーンを蹴飛ばす理由。
ところが、初めて真後ろから見るウルティムの場合は、実際にそうと確認できるわけはないけど前輪が右に動くと同時に後輪が左に動く感じ。その写真も動画もないのが残念だけど、ホイールベースの中心にある支点がスラロームを駆け抜けているイメージ。おそらく上空から見たらホイールベースの分だけ離れてはいるが前輪と後輪が同じ軌跡を描いているように見えるはずだ。
ブレーキングでもオーバル走行でもウルティムは高い運動特性を見せたけど、今回の目玉はスラローム。参加者が自身のクルマであの速度でスラロームをやったら間違いなくコーンを蹴っ飛ばすであろうシーンで、ウルティムは何事もなかったようにスラロームを駆け抜けた。ここは4コントロールの勝ち。自動車技術が人間の能力を補佐した? 否、上回った! と言うべきか。
前輪操舵車と4輪操舵車のタイヤの軌跡については 『第831回 4コントロールを検証する』 で説明しています。なぜ内輪差が生じるのか、内輪差を少なくするためにはどうすればいいのか、イラストから想像できます。

参加者全員がウルティムの4コントロールを体験
ここはスラロームのスタート地点

かなりの速度でスラロームを駆け抜ける参加者
ステアと同時に一瞬アウト側フロントが沈むが
アンダーステアには陥らない

幅14mのオーバルコースのストレートの真ん中に
20m間隔で10本置いたコーンを右に左に駆け抜ける

前輪操舵車の場合
写真の状況では
まず間違いなく後輪がコーンを蹴飛ばしている

ユイレーシングスクールとしては
ウルティムで実現できたスラロームの走りを
今度は自身のクルマででもできるように
なってくれればと思っている
メガーヌRSウルティムをフィーチャーした2月のYRSドライビングワークショップFSW。その1回目になんと、遠路はるばる香港からの参加があった。
なんでも、コーディネーターに日本で運転の練習をする機会を探してもらっていて、いろいろなドライビングスクールをあたった結果ユイレーシングスクールが最も優れていると勧められたのが来日の理由だとか。素直に嬉しい。

香港から参加してくれたYさん
家族で来日したけど
この日は
奥さんとお子さんを東京に残しての参加

リードフォローの1
YRSドライビングワークショップFSW午後の部
半径22m直線130mのオーバルコースで
Yさんの駆るウルティムをボクが乗るウルティムで引っ張る

リードフォローの2

リードフォローの3

Yさんと記念撮影
この日の夜
Yさんからメール
「たくさん学べて楽しかったのでまた来ます」
Yさんは呑み込みが早く
アドバイスしていて気持ちが良かった

Yさんからの写真
Yさん待ってますヨ!
ウルティムの4コントロールをフィーチャーしたYRSドライビングワークショップFSWはあと1回、2月23日(日)に開催します。ウルティムの類まれなハンドリングを体験してみたい方にお勧めです。
・2月23日(日)開催 YRSドライビングワークショップFSW開催案内はこちらから
正直、これは見たくなかったなぁ。
ある日の都内の幹線道路。遠くからサイレンの音が聞こえてきた。やがて流れるクルマの列の向こうに消防車の赤色灯が見えてきた。消防車はクルマをかき分けながら歩みを早めたり遅めたり。
それでもようやく幹線道路が交わる交差点に近づいた時のこと。消防車が突然止まってしまった。赤色灯は赤く回っているけどサイレンは沈黙した。何が起きたいのかと振り返ると、停止している観光バスがじゃまになって消防車が前に進めない。まるで観光バスと消防車がにらみ合っているかのよう。
現場は2車線の交互通行。パナソニックの看板のあるあたりから中央分離帯が始まりやがて右折車線が加わる。観光バスが停まっているのは右折車線が始まる手前のところ。写真からわかるように観光バスと歩道の間が空いているから左に寄れるはずだ。前方にも前に進んで左に寄るスペースは十分にある。それなのに観光バスは微動だにしない。遠目に運転手がじっと前を見据えているのがわかる。動く気配もない。消防車に勝手に迂回していけと言わんばかりに。看板もしょっているのに観光バスの運転手は何を考えているのだ、と毒づきたくもなる。
なんとか観光バスの横をすり抜けた消防車は、次は2車線/3車線の交差点に入ってから停まっているトラックを右から大回りして左折しなければならなかった。トラックの運転手、キョロキョロあたりを見合しているけど何かできることはないかと考えないのだろうか。片側3車線の交差点内で2車線をまたいでふさいでいるというのに動く気配がなかった。
緊急車両に対して進路を譲らない人は一定数いるけど、なぜ譲らないのだろうか。自分は関係ないと思っているのだろうか。譲る必要はないと考えているのだろうか。譲る方法がわからないのか。この消防車は、ひょっとすると知人の家の消火に向かっているのではないかと想像することはできないのだろうか。



仮に、こじつけ気味だけど自動車にしろバイクにしろ運転を生業にしている人を交通人と呼ぶなら、交通人たるもの交通の安全かつ円滑な流れに積極的に関わろうとする明確な意思が必要だと思う。青臭いことを言うようだけど。
ボク自身が優れた交通人かどうかは置いておいて、クルマの運転で恩恵を被っている人間として交通の流れを乱さないように最大の努力はしているつもりだし、この点で人後に落ちることはないと思っている。
後日、大津の郊外の見通しの良い片側1車線の道を走っていると遠くから赤色灯を回転させながら救急車がやってきた。ルームミラーを見ると後続車はいない。救急車との距離があるうちにハザードランプを点けてできるだけ左に寄ってウルティムを停めた。やがてやってきた救急車が横を通過する時に、短く『プッ!』と鳴らすもんだからこちらも無条件に反応して間髪を入れずに『パッ!』。慣れとは恐ろしい。ハザードランプを消してクルマをスタートさせながら、救急車もこういうことをやってくれるのかと嬉しくなって思わずニヤリ。同時に『あれっ! 救急車だよな!』。

初めての認知症テスト
終わった
ドキドキしたけど
何点ぐらいだったのだろう
最近は点数を言わないらしい
次の実技が楽しみ
特に教官とのやりとりが

皆さんは運転していて『あれっ!』と思ったことはないだろうか。 ボクは最近、3度ほど『なんかおかしいな!』という経験をした。
1ヶ月半ほど首都圏で生活をしていた。どこに住もうと原則的にはどこに行くのもクルマに頼るのだけど、大津と違ってたいそう混雑した交通にもまれていた。走るのは都心と首都高速道路、京葉道路といったところ。
基本的にボクは、運転操作についてルールを設けている。しきたりとでも言おうか。クルマを動かしている間は常に同じような操作、再現性のある操作と言えばいいのか、行き当たりばったりではなくいつも同じ手順を守って運転するようにしている。
そのルールはそれこそ無数にあるけど、例えるならばスロットルオフ。減速する前にスロットルを閉じるのだけど、いつもスパッとやる。テレ~とはやらない。はるかかなたの信号が黄色になった時、交差点までに前を走るクルマが何台かいて彼らのストップランプが点いていなくてもまずスロットルペダルを離す。同時に踏み込みはしないけどブレーキペダルの上につま先を動かす。ブレーキラインに油圧がかかりブレーキパッドとブレーキローターが擦れているかも知れないけど、速度の落ち方はエンジンブレーキと同等かそれ以下にする。ブレーキペダルを踏みこむかどうかは次の瞬間に判断する。
ある時、高速道路の料金所を抜けて前のクルマに続いて加速をしていた。前のクルマはある程度の速度に達したら加速をやめて定速走行に移る。車間距離を十分にとって前のクルマに続いていたのだけど、前のクルマが加速を鈍らせた時、車間距離が自分のルールを超えて近づいていた。これが『あれっ!』の正体。
状況を判断するに、前のクルマが加速する率と自分で加速を調整する意識にズレがあったようだ。読み間違えていたのは確かだ。危険な場面にはならなかったし、流れに任せて走っている人なら経験することかも知れないけど、一応ルールに従い自分のペースで運転してきたと自負している自分としては驚きだった。そんなことが3度ほどあった。
で、考えた。これは加齢がなせることなのか。それとも運転に集中していない時間があったのか。危なくは全くなかったし、自分のルールから逸脱していただけだから悩む問題でもないのだろうけど、先のことを考えるととりあえず原因を探ろうと。
そして、自分の問題を棚に上げるわけではないけど、走る環境が変わったのが遠因になっているのではないかと想像した。首都圏の交通はおしなべて車間距離が短い。3車線の京葉道路なぞ多数党がいっせいにガーッって加速する。自分としてはそれに順応していると思っていたけど、あの瞬間だけはのんびりとした大津市街地や遠くまで見渡せる新東名、新名神を自分のペースで走っているいつもの意識が介入したのではないかと。
クルマは安全に走らせるべきだと思う。公道でもサーキットでもだ。そのために自分なりのルールを作ってそれを守る。その範囲で走る目的を達成する。そんな面倒臭いことをと思われるかもしれないけれど、いつも同じことをしているから結果に変化があると直感的に何かがおかしいとピンとくる。それが操作を修正するのに役立つ。ズレがあってもごくわずかなものになっているから、今までの努力が無駄だったとは思わない。その意味では今回、異なった環境での経験は有意義だった。
※写真はカメラ内臓の眼鏡、アイレコーダーを使って新東名で撮影したものです

少年が育った品川区大井出石町。静かな住宅地だったが近くにPXがあったので、カーキ色に塗られたジープやトラックが頻繁に走っていた。それ以外は八百屋さんのオート三輪とおわいやさんのバキュームカーを時おり見かけるほどだった。
「第832回 記憶のかなたの1」から続く
法事で浅草のお寺にお参りした後、やっ古で鰻をいただくのが習わしだった。
何歳の時か忘れたが自動車雑誌の仕事を始めていたと思う。親戚一同が集まった席で、車が好きでその道を選んだことを知っていたいとこが「昔からホントに車が好きだったからな。将来何になりたいか聞くと必ず、毎日車に乗れるおわい屋さんだったもんな」と笑った。
別のいとこが「世話を焼かせたよな」と笑う。小学校に上がる前だったと思う。当時、品川駅を出発して原町や荏原町を回って品川駅に戻る循環バスというのがあった。まだトラクターが客車となるトレーラーを黒煙を上げて引いていた時代。少年はたまにしか来ないトレーラーバスに乗りたくていとこやおばさんの手を煩わせていた。
当時トレーラーバスに乗ることが少年にとって無上の喜びだった。トレーラーの一番前の席に座ると目の前にトラクターがあって、長いバスを操る運転手さんの一挙手一投足を見ることができた。車を操る現場を目撃することができたことが幸せだった。
ふつうは乗った距離の運賃を車掌さんに払い目的地で降りるのだけど、少年はずっと運転手さんを見ていたかった。原町から乗車し一周し原町が近づくと「もう一周したい!」と駄々をこねたことを付き添ってくれたいとこは覚えていた。いとこが車掌さんとどういう交渉をしたかは知らないけど、一周で降りたことのほうが少なかったように思うのだけど。

少年は品川区立原小学校に通っていた。小学校に上がる前から身体の弱かった少年は1年生の時に既に眼鏡をかけ、体育の時間の運動を免除されていた。
友達と野球がしたいと親にグローブを買ってもらうのだけど、ボールを上手くさばけない少年はグローブを親分肌に取り上げられ素手で外野の球拾いが持ち場になった。

運動は大の苦手で今にいたるまで跳び箱と逆上がりは成功した試しがない。それでも少年の小学生時代が俗に言う『暗かった』ということはない。
身体を動かすのが得意ではなかった少年だけど、興味のあることには没頭した。それはお絵描きであり工作であり作文だった。
小学1年生の担任だった長身で美人の大塚先生が憧れの的だった。大塚先生に褒められたくて好きなことに没頭した節もある。大塚先生にとっては当たり前のことだったのかも知れないけど、絵や工作を褒めてくれることは少年にとって前に進む原動力だった。
少年は作文で車のタイヤについて書いたことがある。『自動車のタイヤはかわいそうだな。回るたびにへこんでの繰り返しだから』といった内容だった。大塚先生はその作文を読んで、『すごく細かなところにも目を向けているのね。よほど車が好きなのね』というようなことを言ってくれた。学校の先生にも自動車が好きなことをわかってもらえた。たいそう嬉しかった記憶がある。
タイヤは平らな部分があるからこそ自動車を走らせることができる。少年はたぶん、そうイメージできていたに違いない。