第858回 記憶のかなたの6
第832回 記憶のかなたの1
第833回 記憶のかなたの2
第839回 記憶のかなたの3
第846回 記憶のかなたの4
第857回 記憶のかなたの5からの続きです
子供が乗れるエンジン付きの自動車を手に入れることができないとわかってからの日々を思い出すことができない。落胆の度合いが激しすぎたのだろうか。熱中していた模型飛行機を続けていればそれなりの記憶があるのだろうけどそれもない。おぼろげながら思い浮かぶのは、父親の転勤にともなって区立富士見台中学1年の冬に名古屋市立振甫中学校に転校してからのこと。
同級生に古田康基がいた。動くものが好きという点で共通していた。確か毎月古田がモーターマガジンを買って少年がモーターファンを買って交換して読み漁った。機械加工業の息子であった古田が2年の夏休みの宿題にオートバイを作ると言い出した。小遣いを持ち寄って鉄鋼所でパイプを組んでフレームを作り、リコイルスターター付きのピジョンの200㏄エンジンを積んで、土木用の1輪車のタイヤを取り付けて走れるようにした。担任の鶴田先生は、とんでもないものを作ったなと驚いていたけど、ほこりが舞い立つ校庭で走らせてくれた。
家業を継ぐ古田は東山工業高校に、少年は千種高校に進んだ。同級生に舘 ひろしがいた。高校生活が始まると、前から示し合わせてあったように週末は庄内川の自動車練習所、と言っても無人の教習用コースがあるだけだが、に古田の親父さんが運転するマツダB360に乗って通った。当時16歳で取得が可能だった軽免許をとるのが目的。決して巧くはなかったはずだが本物の自動車を動かせるようになり平針の運転免許試験場で試験を受けた。確か学科も実技も1回でパスした。遅生まれが幸いした16歳の5月のこと。
遅れて6月に軽免許をとった古田の周りには同級生が親のクルマを借りたり、先輩が自慢のクルマで乗りつけるようになった。たまにクルマを持たない少年にも運転させてくれた。ただし名古屋弁の「吉田~ぁ、下手だでかんわ」のクリティーク付ではあったが。
再び父親の転勤に付き合わされて高校2年の夏に熊本に移り住んだ。当時熊本には県立の普通科が2校しかなくしかも進学校。勉強が得意でない少年はバンカラが風を切っていた鎮西高校に転入した。名古屋では発売日に手に入った自動車雑誌が数日、遅ければ1週間遅れでしか店頭に並ばなかった。高校に上がってからサッカーに没頭していた少年だったが、鎮西高校にはサッカー部がなく雑誌もすぐに手に入らずクルマの虫が騒ぎ出したので、松橋の運転免許試験場に普通免許の実技だけを受けに行き一発で合格。夏休みを利用して熊本にやってきた古田とホンダレンタカーでS600を借りて阿蘇山の周りを走り回ったことが思い出される。あれは開放的だった。
しかし少年の周囲にはクルマと縁がない世界が広がっていて、名城大学交通機械科に入って鈴鹿サーキットでコースオフィシャルとして旗を振るようになるまで、どこで何をした、何をどうしたというような具体的なイメージを思い出すことができない。
だからコースオフィシャルはその頃の生きがいだったと言っても過言ではない。鈴鹿サーキットのフルコースのレースには全て参加した。一生懸命旗を振りコースを掃いた。1年もたたないうちに審査員室から丸見えの4番ポストの箱長(ポスト主任)に抜擢された。F2000レースに参加していたレーシングドライバーが走り方を聞きに来た。手が届くような目の前を全開で走り抜けるレーシングカーの動きを観察できたことは、クルマが速く走るためのメカニズムを理解するのに役った。
ある日。たまたま目にしたオートスポーツ誌だったか。東京の渋谷のフォーミュラカーを作っているガレージを紹介していた。よく目を通すとあの解良さんが写っているいるではないか。目の前がパァーッと明るくなった。あの模型飛行機の解良さんがレーシングカーを作っている。その日の夜、バスに乗って東京に向かった。
将来自動車関係の道に進もうと選んだ大学だったが、時は大学紛争真っただ中。ストや閉鎖など、将来を描くために机に向かう気を殺がれる毎日を送っていた。東京へ向かうバスの中で大学を辞めることになるなと思ったのは自然な流れだった。
昨年の暮れ。FBで交流はあったものの、実際にお会いするのは45年ぶり。それでも解良さんは、その昔少年が当時渋谷にあったレーシングクォータリーを訪ね再会を果たしたことを覚えていてくれた。2度目の再会だった。
<続く>