トム ヨシダブログ


第479回 人間の操作 vs 自動車の制御

17年ほど前のこと。ある特定のモデルに乗る人たちのグループがあった。ほとんどの人が車高調を組みSタイヤを履いた、いわゆる走り屋仕様に仕上げていた。グループのうちの数名がユイレーシングスクールを受講したことがあったので、スクールレースを開催する時に、グループのメンバーだけでレースがしたいという申し出を、スピンやコースアウトは絶対にしないことをメンバー全員に徹底するという条件で受けることにした。。

レース当日。噂には聞いていたが、彼らの走りを見て申し出を受けたことを後悔した。

サーキットを走りレースに参加するには速さがひとつの指標となる。それはそれで間違いではないのだけれど、速さを手に入れる方法には節度がなければならない、というのがユイレーシングスクールの思想だ。クルマはあくまでも道具であって、その対極に人間がいる。無機質の物体を知識と意思と感情を持ち合わせた人間が操る。運転というものはそんな営みだと思っている。だから、速さを追い求める行為は、ある意味で人間が自身の能力を引き上げることにつながらなければならないはずだ。

しかし彼らは不快な音を残しながら、FSWショートコースの1コーナーのクリッピングポイントまでABSを効かせたまま突っ込んでいた。

コーナーに対してブレーキングを遅らせればストレートエンドの到達速度がわずかだけど上昇するだろう。ラップタイムの向上に少しは影響する可能性がないわけではない。けれど、ブレーキングを遅らせた分ストレートでブレーキングを終えることができないからと言って、ABSを効かせていればステアリングが効くからと言って、ABSを効かせることを前提とした走りは人間が本来求めるべき速さとは異質なものだ。実際、ABSを効かせている間は機械任せなので姿勢を制御することができないからコーナーの最下点速度が遅く、ABSが介入しないように走ってもラップタイムは変わらない。緊急時の衝突回避のために開発されたABSを、安易に速さを求める手段に使うシーンを見るのはつらかった。クルマさんがかわいそうだった。


閑話休題。一時、F1GPのニュースで「ドライバーズエイドが禁止」というフレーズを頻繁に目にした。ドライバーがオートマチックトランスミッション、トラクションコントロール、ローンチコントロールなどのデバイスに頼って速く走るのは、ドライバーが自身の技量でマシンを速く走らせて競い合うというレースの精神に反するという理由で、また開発予算が潤沢なチームだけが優位に立つことを防ぐために、ドライバーを助けるこれらのデバイスの使用や無線を通じてドライバーを有利な状況に持って行こうとするコミュニケーションが禁止された。なんと言っても、F1GPはレーシングドライバー世界選手権なのだから。

一方で、ドライバーズエイドを運転手の負担を軽減する装置、また運転手の操作を積極的に補助する装置と定義をするならば、我々が運転するクルマにも様々なデバイスが装着されている。
運転手が最初に恩恵を被ったデバイスはブレーキアシストとパワーステアリングだろう。ブレーキアシストがついていなかったクルマは大きな踏力をかけないと制動力が立ち上がらなかった。踏力の調整が難しかった。ノンパワーのステアリングは重いだけではなく、運転手の負担を軽減するためにステアリングギア比が大きくなっているからステアリング操作が忙しかった。
次に登場したのが初期のABS(アンチロックブレーキシステム)か。まだクルマの制御がアナログ的だった頃は、ABSの作動が荒々しくて驚いたものだけど、踏力の強さを意識しないですむ点と、思いっきりブレーキペダルを蹴とばしてもタイヤがロックしないのは純粋に人間を補佐してくれていた実感があった。その次が電子制御に頼らないLSD(リミテッドスリップデファレンシャル)か。他にも自動車技術の発達がもたらした列挙できないほどのデバイスが運転の質を変えてきたことによって、現代の自動車が存在していることは間違いない。

ところが自動車技術とコンピュータ技術が発達してクルマの制御がデジタル化されブラックボックス化されると、人間の操作がダイレクトにクルマの挙動につながっていないのではないかという疑問が生じる。なにしろ、今やスポーティモデルならトラクションコントロールやトルクベクタリングが当たり前。

しかし、中には運転支援システムという名の元に、そこまでやらなくてもいいんじゃない、ドライバーの代わりをするようなデバイスは運転に対する人間の能力と集中力を損なうことになるんじゃない、と言いたくなるようなデバイスが登場したり、運転はクルマ任せでいいんですよ、ってイメージしそうになりそうなCMが流れたり。


ま、運転が手軽になったのを誤解して気軽に運転してしまう人は後を絶たないし。もはや運転という行動に畏怖の念を感じないのか、自分のやりたいように走る人が増えているような気がするし。こういうのを時代の流れと言うのだろうか。それでも、個人的にはそんな風潮に抵抗したいので、デバイスを次の3つに分けて溜飲を下げている。

クルマの性能を向上させると言うよりも人間のクルマに対する理解度を上げてくれるモノ。
人間に楽をさせて本来の運転の厳しさをオブラートで包むようなモノ。
人間がミスをしてもなんとかしてくれると思わせるモノ。

は歓迎するが、は個人的にだけど必要だとは思わないし興味がない。は運転教育と対になっていない場合は意義を感じない。

自動車技術の進化がクルマを操る人間に与えてきた影響は大きい。様々なデバイスは人間がクルマを操る上で大きな恩恵を与えてくれた。しかし一方では、本来は慎重の上にも慎重を重ねて運転しなければ大きくて重くて速く走るクルマを操ることなどできないはずなのに、デバイスがその意識を殺ぐことにつながる場合がなくはない。

だから、ユイレーシングスクールを受講してくれた人にはおせっかいを承知で、「この際、これからクルマとどうかかわっていくのか1度考えてみてはどうですか」と言うことにしている。例えば、ドライバーズエイドがついていないクルマに乗っている人には、運転に対して自立性を保つためにもそのクルマを大切に長く乗られたほうがいいと思いますよ、と。ドライバーズエイド満載のクルマに乗っている人には、どんな場面でもデバイスが介入する寸前を察知しデバイスのお世話にならない運転を目指して下さい、やればできます、と。

昨年12月に開催したアルピーヌA110体験試乗の感想文(439回440回441回442回445回447回448回449回)の中にも、走行中にデバイスの介入を経験したという記述があるけど、デバイスが介入したということはその寸前の操作がその場面にふさわしくないとクルマが判断したことになる。
問題はその後で、デバイスが介入した時に「だからデバイス付きのクルマに乗っているのだよ」と思うか、あるいはデバイスが介入していても気づかないほどクルマの動きに無頓着なのか、もしくはあらゆる場面でデバイスが介入しないような操作ができることを目指すか。そのあたりが道具であるクルマと人間がどうかかわっていくかの別れ道になる。せっかく人間能力拡大器であるクルマを所有しているのだから、クルマとのかかわり方に思いめぐらすのも悪くないと思うのだけど。

さらに、クルマにも性格がある。人間が受け身のままでは、そしてクルマとの付き合い方を軽んじると、クルマの本質に触れる機会を逸しているかも知れない。例えば、

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ドライバーズエイドに勝るもの
それはA110をここまで軽量化した自動車技術
慣性力に大いに影響されるクルマの運動性能
質量を小さくして影響力を最小限に押さえつつ
タイヤのコンタクトパッチの変形も最小限に抑える
原理原則を忠実に具現化した
四輪自動車の理想

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本来ならドライバーが精進して身につけなければならないものを
先行してこうすればいいのだよと教えてくれる教育的なメガーヌRSの4コントロール
どう関わるかで価値が決まる
意識しないのか
ゆだねてしまうのか
原理を解き明かし物理学を自分のものにするか
近代自動車技術の手本

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YRSオーバルスクールに来てくれた
Kさんのランチア フルヴィア 1.3に乗せてもらったけど
いつもの5倍ぐらいの力をいれないと効かないし
急に踏力を立ち上げると前輪がロックするノンパワーブレーキに
切り始めても動きにタイムラグがあってノターって感じの重たいノンパワーステアリング
人間が先を読んで先を読んで先手をうつ必要があって
あ~運転しているという気分に目を見開く
人間の四輪自動車との対峙

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YRSツーデースクールに来てくれた
Nさんのマクラーレン600LT
乗せてもらったけどとにかく速い
動きが破綻せずに速い
常に安定しているから自分の上手さかどうか自信が持てない
デバイスが介入していたとしても不自然さはない
F1の技術を拡大解釈するとこうなる


あなたはこれから、クルマさんとどうかかわっていきますか?



第420回 交通弱所

最寄りの郵便局に行った時のこと。追加で貼る値上げ分の切手を買ったので帰ろうとすると、ドアの前に杖をついたひとりのお年寄りが。ちょうど入ってくる人がいて、そのお年寄りが脇によって道を譲った。ホホウと思った。ボクも道を譲ってから後に続いたのだけど、前を行くお年寄りの歩幅は本当に小さく、杖を頼りにつま先でつっかえつっかえ、ものすごくゆっくりとしたペースで歩を進めていた。

間合いを取りながら様子を見ているとそのお年寄りは駐車場に停めた軽トラックに向かうではないか。失礼ながら、頭の中ではそのお年寄りはクルマの運転はしない、誰かが運転するクルマに乗るのだろうと無意識にふんでいたので、その光景は実に意外というかある種の驚きだった。

自分のクルマに乗り込んで先に駐車場を出ることもできたけれど、お年寄りが気になって軽トラックに先に出てもらおうと決めた。

お年寄りはひとりだった。何もしていなのではないかと思うほど時間をかけてドアを開け、何回かやり直しながら杖をダッシュボードの上に置き、実に長い時間をかけて運転席に座り、かなり間をおいてからエンジンをかけ、何事もなかったように軽トラックを発進させた。時間がすぎるのを長いと感じたのは、間違いなく自分の行動と知らず知らずのうちに比較していたからなのだけど、お年寄りにとってはそれが時間の刻み方だったのだろう。

軽トラックの後に続いて様子をうかがうと、道路に出る前にきちんと一旦停止してちゃんとウインカーを出して左右を確認し(頭がわずかに左右に振れたのでそう想像する)、ボクとは反対の方向に右折していった。

白状すると、足に不自由を感じるようになると操作に支障が出るものだと想像していた。目の前のお年寄りもそうなのではないかと思っていた。でも、お年寄りは足の不自由さを感じさせることなく、ギクシャクもさせずにクルマを走らせていった。
誰もが、少なくとも若い時と同じような操作はできなくなるのだろうな、と漠然とだけど思っていた。ボクはまだ、若いもんに負けない速さで走れるが、いつかは今のように手足が動かなくなる日が来て若い人の後ろを走る日が来るのだろうな、とも。

でもこの日。かのお年寄りが軽トラックに乗り込んでふつうにクルマを動かしているのを見て、どんな状況になっても運転せざるを得ないこともあるのではないかとはっきり想像するようになった。クルマという足がなければ生活できない環境にあれば、身体に不自由があってもクルマを運転するのだろうな、と。それまでと同様の生活の質を保つために、ひょっとすると最低限の生活を維持するために、クルマがもたらしてくれていた便利さを手放すことができるだろうか、と。

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同時に、市民権を持つ奥さんとアメリカ国籍の双子の息子が住むアメリカで老後を過ごすという選択肢もあるし、まだ先のことは決めてないけど、将来、現在の大津市北部に住み続けることを選んだ場合にはクルマを手放せないことも再認識することになった。

最寄りの駅は湖西線の志賀駅なのだけど自宅から速足で40分かかる。一番近い商店、実はコンビニなのだけど、とっとと歩いて30分。郵便局は35分。その上、和邇駅から北はバス路線もない(志賀駅と琵琶湖バレーを結ぶ路線はあるけど交通手段にはならない)。和邇駅のそばにあるスーパーマーケットにはクルマでも20分はかかる。湖西道路は自動車専用道路だし、並行して走る558号線は道幅が狭い上に歩道がない。クルマ以外の手段で買い物に行くのは現実的ではない。

高齢者が運転を続けることに対する批判があるのは承知しているし、高齢者が事故を起こす比率が高いのも知っている。身体に不自由があればクルマの運転は控えたほうがいいのだろう。けれど、クルマを運転しないと生活が成り立たなくなるかも知れない、クルマの運転が生活の質の維持するのに不可欠かも知れないと、少しだけ現実的に想像するようになった気がする。なによりも、クルマを運転しなくなることで自立心がそがれるのを心配している自分がいる。



第310回 保存ファイルから

ファイルを整理していたら懐かしい写真が出てきた。

ユイレーシングスクールを立ち上げた時から告知はWEBサイトだけだった。そのホームページに月替わりで載せていた写真。どれも1980年代、躍動していたアメリカのモータースポーツを取材したもの。

加工して掲載していたのとオリジナルが手元にないので見難いけど、あの頃のアメリカはクルマを使った遊び方の宝庫だった。日本人にとってはほんとうに眩しい世界だった。

日本では味わえないクルマの楽しさをどう伝えるか躍起になっていた時代が懐かしい。


LAオートショーでのホットロッド
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ロングビーチGPでのCARTインディカー
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ポモナレースウエイでのNHRAドラッグレース(写真左からファニーカー、ファニーカー、プロストックの各クラス)

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ウィロースプリングスレースウエイでのSCCAフォーミュラフォード スゥイフト全盛時代
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たなびくスターアンドストライプ
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リバーサイドレースウエイでのIMSA GTPマシン

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WKA スーパーカート
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ワトキンスグレンのNASCARウィンストンカップ(4枚目は今は亡き大好きだった名手デール・アーンハート)

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ボンネビルソルトレークでのSCTAスピードトライアル
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リバーサイドレースウエイダートストリップでのSCSDAサンドドラッグ
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ロードアトランタでのSCCA Run-off(全米選手権)ショールームストックGTクラス
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世界で一番速いオープンウィール ワールド・オブ・アウトロー
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フェニックスレースウエイでのトラクターレース

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アメリカはクルマの楽しみは無限であることを教えてくれた。
だから。ユイレーシングスクールはクルマの楽しさとクルマを動かすことの楽しさをずっと伝えていきたい。


・ユイレーシングスクールWEBサイト ホームページ
・ユイレーシングスクールポリシー
・ユイレーシングスクール教科書プリフェイス
・ユイレーシングスクール教科書目次
・ユイレーシングスクール2018スケジュール



第309回 さてさて

今年3月のYRSツーデースクールにアクアで参加してくれたTさん。受講して運転がより楽しくなったみたいですよ、とYRSを勧めてくれたF君から聞いていたのだけど、先日のYRSオーバルスクールの日に買ったばかりの新車で現われた。

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Tさんが購入したヴィッツGRMN
なんと
150台限定生産
税込み400万円ちょうどだと
ただし既に完売らしい

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ヴィッツの最もベーシックなモデルは120万円を切る
売れ筋で160万円ぐらいだと言う
この飛躍にはちょっと驚く


こういうクルマを支持する人が存在するのは確かで、その人達はその商品に価値を見出しているのも事実なのでそれを否定するつもりはさらさらないのだけど、メーカーのなんでもありのマーケット作りはどうなんだろうね。商品のありようが結果的に文化を育む、という視点からは・・・。


オーバルレースに出ちゃいなよ、と水を向けると、「まだ200キロしか走っていないので、慣らしが終わったらスクールに来ま~す」。
その時には乗せてもらって、冷静に評価してみたい。


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トヨタ自動車WEBサイトから原文のまま引用して作った頁
ちょっとツーマッチだな



第243回 カングーがそそる

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現実のクルマの使用目的が『A地点からB地点までできる限り速やかに効率良く移動すること』だとすれば、我が国の交通事情を考えると動力性能があり余るほど高い必要はないけれど、交通の流れを安全にリードしあらゆる状況で高い走行安定性を示すクルマが個人的な選択の対象になる。

しかしたまにだけど、時の流れを気にしないでいい立場にななったらどんなクルマを選ぶのだろうかと想像することがないでもない。何度か代車で借り出したカングーもその対象の1台だ。

初めてカングーに乗った時、日本車にはまず見られないサスペンションの味付けに感激したことは忘れられない。そして、カングーのある景色が、なんかほのぼのとするなといつも思う。もっとも、まだそんな景色に自分が溶け込む歳だとは思っていないのも事実だけど。

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デザインのせいかカングーのある風景は温かみがあるというか・・・

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カングーが持ち込む色もいい

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荷物を運ぶだけじゃないし

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だいいち、ディーラーのショールームが華やかだもの

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で、突然ですが
カングーで一番気に入っているのがここ
このくびれ

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面と面をつなぐ線の存在感も


ひとつの連続した面でもいいはずなのに“へこんでいる”。

なぜへこんでいるのか? なぜへこまさなければいけないのか? と考えるのは無意味。
ここの逆Rがあるからこそのカングー。    色っぽいじゃありませんか?

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だからと言うわけではないし
多少強引な展開ではあるけれど
カングーにインスパイアされたと言えなくもなく
スマホのケースにも  く・び・れ

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もちろんこんな持ち方はしないけど
持った時のこの安心感はゆずれない

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本稿とは直接関係ないけど
ロック画面にはカングーではないけれどルーテシアRS

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ホーム画面にもルーテシアRS

話を戻して、

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くびれ と形容しても異論はないでしょ


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バックドアの面はルーフに続く水平面で始まり
直径の小さな円筒を縦に四等分したような曲面を経て
巨大な半径の凸面を形成しながらくだり
次にリアウインドウ下端あたりでいつの間にか凹面へと逆転し
くぼましたナンバープレートリセスの中間にピークを持ってくる
だけど
くびれた部分に被いをかぶせればバックドアがひとつの大きな凸断面に帰するという
なんという面の使い方
色っぽいと表現する以外の言葉がない

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逆Rと言えばボンネットにも
天井のライトひとつがこんな風に
面の置き方が景色を変える
まさにデザインの妙


カングーにそそられる !



第223回 プッ

某タイヤメーカーのCM。パソコンに向かって音声だけを聞いていたのだけれど、思わず吹き出してしまったぜ!


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ついたよ。                   <沈黙>
どしたの ?

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おりたくない。
もっとのってていい ?             <間>
あなたはおりて !

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えっ !?



※写真は某タイヤメーカーのウェブサイトに公開されている動画をキャプチャーして無断で使わせていただいています。支障がある場合はご連絡いただければ幸いです。


第222回 ルノーで良かった

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某社がアメリカ市場に投入しているハイブリッド車の現行モデルの売れ行きがかんばしくないとのニュースに触れた。理由はデザインがアニメから飛び出したようで奇抜すぎる、ということで敬遠されているらしい。

夜間後ろについて走っていると、なぜテールライトの意匠があれでなくてはならないのかね、と思うし、フロントグリルがこわい気がするし、どちらかというとコンサバティブなアメリカでは苦しいのかなと想像したり。

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もっとも、アメ車もこれでもかこれでもかと、ずいぶん押し出しの強いデザインが当たり前になってきて、仮に今アメリカに戻ることになっても欲しいクルマはない。プレーンな面で構成されたデザインが好きで買った80年代中期から90年代前期までののサバーバンとクルーキャブが懐かしい。

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デザインの好みは人によってまちまちだということは承知しているけれど、個人的に今の自動車のデザインを見ると心穏やかではない。あくまでも個人的な意見だけど、美しいとは思えないクルマが多い。
デザインに必然はないのだろうけど、なぜそんな形にしなければならないの、と戸惑うことが多い。

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その点、ルノーのデザインはいい。

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ルーテシアⅢRSのリアの張りとフロントのフェンダーラインに魅せられて始まったルノー車との付き合いだけど、ルノーを選んで良かった。
面の使い方が気に入っている。なんと言ったらいいのか、子供っぽくないし、幼稚に見えないし、薄っぺらくないし、デザインのためのデザインに見えないし。要するに、しとやかで、品があって、成熟さを感じるってことが大事なんだ。

そしたら開幕したジュネーブショーのニュースが入ってきた。最大の驚きと落胆は、某社が発表したホットハッチのデザイン。前後バンパーに施すデザインは某社のアイデンティティかも知れないけれど、いくら動力性能が売りとは言え、やりすぎだ。とてもバランスのとれたデザインとは言えないし、デザインの目的が他との差別化にあるのではないかと勘ぐってしまう。

クルマのデザインはクルマのある風景を変えるだけでなく、人のクルマに対する意識も変えてしまう可能性がある。さらに言えば、人の心も変えてしまうかも知れない。

クルマはクルマ単独で存在意義があるのではなく、所有者と対になって初めてクルマとしての価値が生まれるのだと思う。だから、クルマのデザインは平和であってほしいのだ。

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ルノーで良かった。


第221回 オーバルコースは楽しい

ファイルを整理していたら出てきた動画をアップした。

ロサンゼルスのダウンタウンから西に1時間。ベンチュラカウンティフェアグラウンドにあるベンチュラレースウエイ。1周400mのダートトラックを13秒で走るミヂェットのレースをご覧あれ。
滑りやすいダートトラックをなぜ速く走れるのか。その秘密はまたの機会に。

オーバルコースは単純なレイアウトに見えるけど、そこを速く走ろうとすると課題満載。クルマと運転を楽しむにはうってつけ。
ユイレーシングスクールのカリキュラムにもコーナリングの練習に特化したYRSオーバルスクールがあります。


第220回 今は昔

つい最近、フェイスブックで次のようなやり取りがあった。

書き出しっぺ(?)は、ボクがアメリカに住んでいた頃に某自動車雑誌の編集長だったSさん。Sさんは今なおクルマを転がすのが好きでたまらないのだけど、そうではない人が増えているのを嘆き、クルマがクルマとして扱われていない現実を憂う。
そして、後から加わった元モータースポーツ誌編集長で現在もモータースポーツ関係のメディアを主宰しているYさん。独自の視点からクルマの運転を軽んじている人にお灸をすえる。 (☉☉)


Sさん: 「ただただ楽しむために走らせる」。これをわかってくれる人がずいぶん減ったようです。いい時代は遠い過去。

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Sさんがコメントとともにアップした写真

 

Mさん:そっと夜分遅くに走るだけのために、車で出かけるような気に成る車が少ないのも残念だとしばしば思うこの頃です。

Sさん: たしかにそうですね。優等生とは遊べないですね。

Mさん:車はちょっと悪めが素敵ですね、元来男は不良っぽいものが好きですから、本能だと思っています。笑

Aさん:そういえば、早朝や夜中走るの減りました。古いクルマは、エンジン音ご近所迷惑かなと。でも新しいクルマではそういう気起きないんです。何でかな?

Sさん:モダーンカーだとテンションなかなか上がりませんよね。

Nさん:エンジン音を聴きながら車とふたり…深夜ドライブ良いですね

Sさん:どんどん自分ひとりの世界に入って、還ってこられなくなりそうです。

Kさん:私の周りにも、楽しむためだけに走ることが理解出来ない人が大多数ですね(T_T)
それだからこそ、ご同類の方々とお話しすることが、より楽しく感じますね(・ω・)ノ

Sさん:おっしゃるとおりです!

Aさん:昔のクルマの計器灯の仄明かりや、塗装の有機溶剤と生ガスの混じった臭いをね、窓を開けた時の夜風がスピードを上げるに連れ引き抜いていって…ブレーキ掛けて止まると、また何処かしら臭いが立ち上がってくる感じとか、、ね。ブリンカー・ベルのカチカチいう音、昼間以上に耳へ届く感じとか……「夜霧よ今夜もありがとう」って気分、素敵

Sさん:そう、そう、そう!

Aさん:裕次郎と浅丘ルリ子よか、二谷英明気取ったりしてね。エースの錠だと格好良すぎて体裁届かない

Kさん:免許取立ての頃は軽トラでも何でも走れば楽しかったです!

Sさん:そうでしたね。ヒール&トウを練習するのもワクワクでした。

Yさん: クルマは人や荷物をA地点からB地点に運ぶもののはずだけど、30年ほど前に初めてフェラーリに乗って気がついた。「どこにもいかなくていい」ってことに。つまり、A地点からB地点に移ることはどうでもよくて、移動していることそれじたいが楽しい。
で、気づいたのは、自動車レースって、どこにもいかないってこと。必ずスタート地点に戻ってくる。それどころか、同じところをグルグルまわっているだけだな、と。
だからヒール&トーの練習が楽しいのは、どこかに行くためじゃなくて、動くことが楽しいからだね。なんか、嬉しいぞ(^^ゞ 。

Sさん: クルマを楽しむ。それはモータースポーツそのものですね。あっ、Yさんにとっては釈迦に説法でした。m(_ _)m

Yさん: 私が勝手にでっち上げているモータースポーツの概念はもうちっと違ってます、ってこれこそ釈迦に説法だけど(^^ゞ 。
例えば、「スポーツ」と一般に誰でも認めるテニスは、テニスコートに行かなくちゃできない。
でも、モータースポーツは、町中でもできる。と言っても、スピードを出すんじゃなくて、すでに自動車は動かしている時点で、四肢も五感も使うスポーツになっているということで。
じゃ、レースはどうなるのかといえば、それはモータースポーツの中でも“モーターレーシング”というジャンル、ってことかなと。

T:激しく同感です。同じようなことを受講生に話しています。Yさん、モータースポーツの定義として大いに広めて下さい。

Uさん:良くわかります。そんな気分でいつもこの辺りを、この先をちょっと曲がったところに住んでいたので、なおさら。懐かしすぎます。

Mさん:楽しそうですね! 左のシートには文系女史かな?

Sさん:私ひとり。

Hさん:私もよくやります~(笑)

Sさん:そうですよね。(^_^)

Nさん: Sさん、おはよう御座います。「車に乗るために」目的は、後からついて来るのですよね!でも、そういう気にさせる車が少なくなりましたね。

Iさん:皆さんのお話し伺ってて、昔のピュアな自分思い出しました。6Vバッテリーのビートルはエアコンもなく、ライトは暗い。カーオーディオは家のラジカセ持ち込み、オネーサンが可愛いと乗ってくれたけど、10分後には用があると去って行った。でも エンジン音と なんとも扱い難いクラッチペダル 自分としてはポルシェ乗ってる気分でした。今思うと 車と いやモノとの関わりの原点だったような気がします。

Sさん:「クルマ命」、そんな時代もありました。

Yさん: その言葉、これからの人生を楽しむキイワード(キイフレーズ?)として使えそうW’僕もよく晴れた日にSMを駆って田舎道を楽しんでます。

Sさん:お互い楽しみましょう!


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38年間乗っているSさんの愛車
※写真は全てSさんのフェイスブックから承諾を得てお借りしました

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Sさんの足


『 あなたはクルマの運転を楽しんでいますか? 』


第206回 キャトルその後

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某月某日午後5時少し前
いつものところに いつものように
そこにいるとホッとする

一杯飲みに行く道で目にするキャトルにブログで触れてから1年あまり。あれ以来、なんどとなく赤提灯に行ったのだけど、そこにいなかった時もあってやきもきしたり。それでも大方はそこにいた。

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今回は背中に注目

相変わらずつややかな赤をまとうそいつは、今回、リアにラゲッジラックを背負って目に飛び込んできた。ずいぶん前のことだけど一番最初に目にした時は、確かルーフラックもついていなかったと記憶するから、また装いが新たに。

失礼を承知で駐車場に入ってぐるり。『こういう造形は心が温まるよな』、といつもの独り言。勝手ではあるけれど、ずっとそこにいてほしいと思う。個人的にだけど、無機質なデザインや奇抜なデザイン、これでもかっていうデザインが増殖するクルマ社会にあって、こいつを見ると目尻が下がる思いになるからね。

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こういうのが似合うクルマは少ない
そう思いませんか

また赤提灯に行こうと思う。



※車名を前回はカトルと表記しましたがネット上で多数派と思われるキャトルに変更しました