トム ヨシダブログ


第873回 記憶のかなたの9

1979年9月。1ドルが230円と円安の中。無謀にもなんのつてもないアメリカに渡った。異国の地の生活はそれはそれは大変だったけど、アメリカのモータースポーツを見て肌で感じ味わうたびに、アメリカに来たことが大正解だったことをかみしめる毎日を送ることができた。

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アメリカでの思い出はそれこそ語りつくせないけれど、記録が残っているアメリカンモータースポーツシーンを紹介したい。

第273回 遠い昔の思い出 1 (2018/1/19) CG1993年9月号 人にやさしいモンスター/トヨタスタジアムトラック試乗
第274回 遠い昔の思い出 2 (2018/1/17) CG1994年3月号 グラスルーツのNASCARストックカーに乗る
第325回 遠い昔の思い出 3 (2018/11/12) CG1993年12月号 最後のスポーツプロトタイプに乗る/AAR Eagle MkⅢ 試乗
第740回 遠い昔の思い出 4 (2023/8/19) CG1994年10月号 280Km/hのコーナリングにしびれる
第793回 遠い昔の思い出 5 (2024/6/12) CG1994年2月号 オーバルトラックのグラスルーツ/ミヂェットカー体験試乗記



第867回 記憶のかなたの8

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遠い昔の思い出7から続く

 

池沼選手が2TGエンジンを積んだチューブフレームのバギーで挑戦したBAJAインターナショナルレースは無事に終わった。
池沼選手は事務局を担当していた日本オフロードレース協会が1976年に SCORE (Southern California Offroad Racing Enterprises:現存)に派遣したものだけど、日本人ドライバーが海外のオフロードレースに挑戦した最初の例になる。

サンディエゴからさらに南下し国境を越えてメキシコ領ティワナへ。ティワナからさらにクルマで南に1時間。バハカリフォルニア西岸、太平洋に面した港町エンセナダがスタート地点。カラフルな街並みに続々とオフロードマシンが集まってくる。カブト虫と呼ばれる空冷エンジンのVWを改造したBAJA BUG。Tubeと呼ばれるパイプスペースフレームにVW空冷エンジンを搭載したバギー。全てと言っていいほどVWの空冷OHV水平対向エンジンを積んでいた。当時は改造パーツが豊富でメンテナンスも容易だった。だから車検場ではダブルオーバーヘッドカムの水冷4気筒エンジンは注目の的だった。

確か2輪を含め300台近いエントリーがあったと記憶する。クラス毎に分かれた参加者が1分間隔でエンセナダの市街地を駆け抜ける。

BAJA500と呼ばれていたこともあったようだけど、1976年はBAJA Internationalとしてカリフォルニア半島を横断してカリフォルニア湾に面した港町サンフェリペで折り返しエンセナダに戻る420マイル=670Kmのレースだった。

レース参加者は砂漠の中を走るのだが、たまにバハカリフォルニアを縦断する国道1号線の近くをコースが通っていたり横切ったりする。そのあたりにサポート部隊が設営していた。ボクもマシンの近くに寄れる場所を探して写真を撮った。コダックのKRの時代。
ところどころに民家が建っていた。人づてに家畜の糞をブロックにして積み上げたものだと知った。オフロードカーのジャンピングスポットには大勢の地元の人が集まっていた、どこから来たのかは見当がつかなかった。

LAに戻ると日本を発つ前に手配していたトヨタとマツダの広報車を試乗した。日本にはない2.6リッター直6を積んだスープラXXは確かに加速はよかったけど、フリーウエイの鋲を踏んだ時のショックとノイズが大きかった。バネ下が暴れているよだった。マツダのGLC(日本名ファミリア)も同じだった。ロードノイズも大きかった。路面がアスファルトではなくコンクリートなのが原因かなと思った。

余談になるけど、アメリカのフリーウエイの車線を分けるのは白線ではなく、一定の間隔で置かれた高さ5センチはゆうにあろうかという鋲。速度が高いから避けるまでもなく踏む確率は高く、それなりのショックとノイズがあるから車線を変更したとの自覚が生まれる。しかも鋲に埋め込まれたキャッツアイ=反射板は白色なのだけど、何車線あろうと最も右に並ぶ鋲、すまわち路肩に最も近い鋲に埋め込まれたキャッツアイ=反射板は黄色なのでその右側が路肩だとわかる。だから街路灯もない真っ暗なインターステイツをヘッドライトだけを頼りに走る時でもそれほどの不安はない。
最初にアメリカで鋲を踏んだ時には邪魔だなと思ったものだけど、近ごろ新名神から伊勢湾岸に乗る時の大きなダブルS字の白線が消えていて夜間にどの車線を走っているのか覚束なかった時、日本でも車線を分けるのは鋲にしたほうがいいと確信した。そうはならないと思うけど。

LAではチャイニーズシアター前のルーズベルトホテルに泊まった。近くにアービーズというファストフードがあった。初めてローストビーフサンドイッチなるものを食べた。衝撃だった。ハンバーガーとは違う肉々しい美味しさ。アメリカにいる間、備え付けのホースラディッシュとアービーズソースをたっぷりかけて何度食べたことか。

867-1 日本に進出したと思ったアービーズが撤退してしまったのが残念

ある日ハリウッドから南に30分ほどのところにあるガーディナに行った。当時アメホン=アメリカンホンダの本拠地があった。用事をすませ夕方アスコットパークに向かった。話に聞いていたダートのオーバルコースで行われるレースを見るためだった。

昔からモータースポーツはクルマの究極的な使い方だと思っていた。運転が上手いと胸を張れるほどの自信はなかったから、はなからレーシングドライバーになるつもりはなかったけれど、モータースポーツの全てが知りたいという欲求は強かった。

中学時代から読み始めた自動車雑誌の記事から、アメリカを代表するモータースポーツはインディ500とデイトナ500だと結論付けていた。結果的にそれは間違いではなかったけど、アメリカのモータースポーツの巨大さは日本にいて知ることはとうてい無理だった。
1979年にアメリカに居を移してアメリカにどっぷり浸かった生活を始めて、初めてインディ500のルーツがアメリカのそこかしこにあるオーバルコースだと知った。

そのオーバルコースでは有名なアスコットパークスピードウエイに足を踏み入れる。プーンとなんかの匂いがする。グワッというような暴力的な音が絶え間なく聞こえてくる。行きかう観客はみな透明のカップに入ったビールを持っている。トイレがおしっこ臭い。コースを見渡せるスタンドに登る。目の前で車輪がむき出しのマシンがカウンターステアを当てっぱなしでグルグル回っている。リアタイヤはドラム缶の輪切りに見えた。

プログラムを買った。状況がわかってきた。走っていたのは400馬力ほどにチューニングしたアメリカンV8を積んだスプリントカーだった。エキゾーストパイプは直管だった。アスコットパークスピードウエイは西海岸で有名なハーフマイルトラック=1周800mのダートトラックだった。最初に鼻をついたのはスプリントカーがメタノール燃料を燃やしていたからだった。
プログラムの終わりの方にインディ500に続くピラミッドが描かれていた。いくつものカテゴリーが載っていた。スプリントカーは登竜門の1番上にあった。そしてピラミッドの底辺に4歳から始められると謳ったクォーターミヂェット=4分の1ミヂェットが載っていた。その昔、立川飛行場のオーバルコースでアメリカ人の子供が楽しそう乗っていたのに自分は乗れなかったあ・れ・がクォーターミヂェットと呼ばれていることを知った。

ようやくアメリカンモータースポーツの全体像の端っこが見え始めた。初めてのアメリカはホントにホントにゾクゾクの連続だったのを覚えている。

792-5 スプリントカーの弟分のミヂェット


第793回 遠い昔の思い出 5
(2024/6/12)
CG1994年2月号 オーバルトラックのグラスルーツ/ミヂェットカー体験試乗記

<続く>



第567回 千分の1秒

ユイレーシングスクールの卒業生で、おそらくユイレーシングスクールのスクールレースにOさんに次いで最も多く参加したTさんが教えてくれた動画がしびれる。タイトルをつけるとするならば、The closest finish ever! になるだろう。なにしろ1位と2位の差が0.001秒なのだから。

※1分の動画です。ぜひ最後まで見て下さい。モーターレーシングがクルマを使ったスポーツだと納得できます。

アメリカのレースはいい。参加する人も見る人も大いに楽しめる。規則の設定が絶妙なんだな。ひょっとすると、最も楽しんでいるのは主催者かも知れない。

話は飛ぶけれど、1996年のデイトナ500マイルレースの時にインタビューした当時NASCARマーケティングディレクターのブライアン・フランス元NASCAR CEO兼会長にインタビューした時の話が忘れられない。

「トム、我々は単に自動車レースを開催しているのではないんだ。クルマを使ってはいるが、ボールゲームズを上回るエンターテイメントを提供できるように努力しているんだ」。アメリカのスポーツと言えばフットボール(NFL)、バスケットボール(NBA)、野球(MLB)にアイスホッケー(NHL:球技には含まれない)が人気だけど、当時すでにNASCARが統括するウィンストンカップ(現モンスターエナジーカップ)はそれらボールゲームズの視聴率を凌駕していた。「事故が起きてもいいんだ。ドライバーが怪我さえしなければ。それを見に来る人が大勢いるのだから」とまで言い切る迫力にタジタジだったことを覚えている。

ユイレーシングスクールのスクールレースはエンターテイメントとは呼べないけれど、どこを目指してどういう仕組みを作るか、アメリカから学んだことは多い。

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画像しか残っていないのが残念

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オートスポーツには隔号でコラムも持っていた
昔アメリカから日本に送った記事をできれば読み返してみたい



第544回 早や一年

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神谷さん
雅子さん
弦君
そして ウエストレーシング



第505回 嬉しい知らせ

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今朝YRS卒業生の湯崎さんから嬉しい知らせのメールが届いた
 
湯崎さんは2015年5月のYRSドライビングスクール筑波に初めて
ポルシェGT3で参加してくれた
その後GTR→フェアレディとクルマを換えて9回ほど遊びに来てくれた
YRSオーバルスクールにもYRSドライビングスクール筑波にも

トムさん
湯崎です。ご無沙汰してます。

7月26日(日)スポーツランドSUGOにて行われたJAFサーキットトライアル菅生第2戦でクラス優勝できました!
ユイレーシングスクール生徒としてやっとトムさんに勝利報告できました(本来ならスクール参加してその場での方が良いのですけど)。

下記公式リザルトです。お手すきの時にでもご覧いただければ幸いです。

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湯崎さん おめでとうございます。もっともっとモータースポーツを楽しんで下さい。
ユイレーシングスクールにも遊びに来て下さいね。



第472回 懐かしきスターレット

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1984年
SCCA Run-Off が開催された
ロードアトランタのパドックで
後にこのスターレットを購入することになったGreg Hotzが
当時撮っていた写真をつい最近送ってくれた


1985年。SCCAクラブマンレースレース参戦4年目に向けて準備をしていた頃。子供を授かったことを知った。

ある日、トーランスの病院に行くと先生が言った。「トム、喜べ、ツインだ」。    一瞬絶句。
頭の中をいろいろな思いが駆け巡る。医療費の高いアメリカ。出産後に手助けしてくれる人のいない環境。展望が開けない。

わずかに、双子なら出産費用が倍にはならないなとよこしまな考えに救いを求めたものの、先生から告げられたのは「トム、お金はあるか? ツインの場合は余計に費用がかかるからな」だった。

2年連続でSCCAカリフォルニアチャンピオンを獲得していたからレース活動を続けるつもりだったけど、2年半の間毎回レースに付き合ってくれて、ラップタイムを記録してくれて、無線で叱咤激励してくれて、夏の暑い日にはトレーラーの中でそうめんを作ってくれた奥さんの一大事。男として腹をくくった。

持っていたトレーラーのロールスロイスと言われる45フィートのシャパラルトレーラーと日本のTRD綱島で作ってもらったスターレットを売却し、いったんレース活動を封印することにした。もちろん後悔はなかった。

今となっては懐かしい思い出。35歳になった息子達はアーバインで元気に暮らしている。



第457回 神谷さん ありがとうございました

2020年2月24日。この日はボクにとって、一生忘れることのできない、とてもとても大切な一日だった。

昨年末亡くなった公私ともにお世話になった神谷誠二郎さんを送る会が「Thanks神谷」と題して鈴鹿サーキットで執り行なわれた。
なんの恩返しもできないままお別れをしなければならずつらい一日だった。クルマを作ることと同じくらい運転が好きだった神谷さん。ドライビングスクールへの理解も深くあれこれ応援してくれていた。今となっては、少しでも長くユイレーシングスクールを続けることがせめてもの恩返しになるのではないかと覚悟を新たにした一日でもあった。

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祭壇には無数の深紅のバラが
レース関係者
レーシングドライバー
レーシングチーム
全国から駆けつけた350余人が
同じ深紅のバラを一本ずつ献花したから
それはそれはあでやかな会だった


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当日いただいたリーフレット

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当日会場にはたくさんの写真が飾られていたけど
その中で最も神谷さんらしいのがこれ
神谷さんの周りにはいつも笑い声が絶えなかった

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会場に展示されていた
WESTレーシングカーズの系譜


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神谷さんはいつも笑顔
怖い時はとんでもなく怖いけど
いつもは明るい笑顔笑顔

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レーシングカーは作るは
エンジンはオーバーホールするは
クルマに乗せても速いし
レース界のスーパーマンだったしボクのあこがれだった

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とにかく
神谷さんが動いていないところを見たことがない
手と口が同時に動いているのは当たり前
休む時があるのだろうかと心配したこと数えきれず

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鈴鹿に泊まることになった日
「元を呼んで飲もう」と神谷さん
高桑 元さんが合流してしこたま
楽しい楽しい夜でした
高桑さんはツインリンクもてぎ北米代表をしていた時の直接の上司

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2016年7月3日に開催されたリジェンドミーティングで挨拶する神谷さん

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神谷さんの尽力で各地に眠っていたFL500が眠りから覚めつつある
60年代後半からアマチュアレースの雄としての存在は大きかった

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2016年のリジェンドミーティングに集結したFL500マシンとFJ1600マシン

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リジェンドミーティングの参加者たち
レーシングカー好きの輪の中心にはいつも神谷さん

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1975年にリリースされたWEST759

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中嶋 悟さんが乗って大活躍したマシン

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何かあればみんなが神谷さんを頼る
何でも解決してしまう手とパワーには圧倒されたものだ

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スポーツカーノーズのWEST759

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本格的なインボードサスペンションが見える
神谷さんのこだわり



神谷さんの頭脳から送り出されたレーシングカーは累計1,300台を超える。中でも2019年に誕生したVITAは既に生産200台以上になり、日本はもちろんフィリピン、中国でもワンメイクレースが開催され世界でも有数の量産レーシングカーになっている。

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VITA10年の歩み
VITAの魅力

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一度鈴鹿サーキットで乗せてもらった時
人間の操作に寸分の違いもなく反応するVITAに惚れて
神谷さんにYRSの卒業生にも乗せてほしいとお願いして
FSWの駐車場でVITAオーバルスクールも開催した

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鈴鹿の工場から2台のVITAを持ってきてくれ
YRSオーバルスクールの合間に運転手に対する許容度の低い
純レーシングカーを
YRSオーバルスクール卒業生に味わってもらうことができた

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神谷さん自らコクピットドリルやベルトの装着
とにかくじっとしていることのない神谷さん
ボクの目標とする人間像だった

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メッカが所有するVITAを借りて
YRSドライビングスクール筑波の合間に
体験試乗を開催したこともある

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神谷さんはレーシングカーを作るだけではなかった
「クルマをつくるだけじゃなく運転の楽しさも味わってほしい」と
ウエストレーシング社員全員で
YRSオーバルスクールFSWを受講してくれたこともあった


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「Thanks神谷」に展示された1台
世界にたった1台しかなかったWEST82FF
日本のFJ1600レース用のWST82Jを
フォーミュラフォード様に改造してアメリカに送ってくれた
現在はFJ1600仕様に戻され
鈴鹿サーキットでクラシックレースに参加している

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世界に1台だけ存在したWESTレーシングカーズ製フォーミュラフォードの証

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2016年にFJ1600仕様にコンバートされた際
神谷さんが
「懐かしいだろ。乗ってみなよ」と電話をくれた
2016年7月のFL500倶楽部走行会で走らせてもらった

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「Thanks神谷」に展示された1台
1986年FJ1600チャンピオンマシン
WEST86J

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「Thanks神谷」に展示された1台
スーパーFJマシン
19J

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「Thanks神谷」に展示された1台
F4マシン
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「Thanks神谷」に展示された1台
鈴鹿サーキットのCS2クラスマシン
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「Thanks神谷」に展示された1台
鈴鹿サーキットのネオヒストリックレース用の
VIVACE



第409回 懐かしきSCCAクラブレーシング

いつもいろいろな情報をもたらしてくれるスタッフのYさんが、今回はお宝映像を掘り出してきてくれた。

遠い昔の話だけれど、1982年11月にカリフォルニアのリバーサイドレースウエイで初めてアメリカのSCCAレースに参加した。クルマはSCCAの規定に合わせて日本で作ってもらったスターレット。6つあるSCCAのカテゴリーの中のGTクラス。ポテンシャルパフォーマンスからGT5クラスに該当した。翌1983年から本格的にレース活動を始め、アリゾナ州やネバダ州のサーキットにも足を運んだ。
スポーツ・カー・クラブ・オブ・アメリカは当時、CAN-AMやTRANS-AMというプロレーシングとアマチュアのためのクラブレーシングを開催していた。クラブレーシングは賞金も出ないレースだけど、全米一の名誉を目指すことができた。全米を7つに分けたデビジョンでポイントランキング3位までになると、当時は秋にジョージア州にある1周4.06キロのロードアトランタで行われる全米選手権(Run Off)に招待され、各デビジョンの上位ランカーと争うという仕組み。賞金は出ないけど招待選手ということでけっこうな金額のトラベルマネーは出た。

レース経験はないに等しかったけれど、渡米前にクルマ関係のライターをやっていたことと6年間鈴鹿サーキットでコースオフィシャルをやっていた経験が役立ったのだと思う。南太平洋地区で2位になりRun Offへの切符を手に入れることができた。
1983年のSCCA Run Off GT5クラスには自費参加の1名を含む22台が終結した。初めてのサーキットではあったけれど、そこはそれ、短時間でレイアウトに慣れコーナリングスピードを上げていく方法は知っていた。SCCAのGTカテゴリーはチューブフレームが許されているのでユニボディにロールバーを組んだだけのスターレットは重心が高かったけど、それなりに操る方法はあった。
アメリカの家には当時の資料が眠っているはず。だけどコースレイアウトやどうやって走ったかは覚えているけど、予選/レースの記憶はほとんどない。Yさんが見つけてくれた動画を見てみてわかったけど予選は12位だったようだ。一般的にアメリカのレースはローリングスタートで始まる。SCCAクラブレーシングもそう。グリーンフラッグが振られて一斉に1コーナーを目指し、5速全開で駆け上る1コーナーに殺到する。そんなスタートで始まった18周のレース。最終的な結果が6位だったこと全米6位のプラックが貼られた小さな大理石をもらったことは、かなり鮮明に覚えている。


1983年のRun Offを追いかけた5つの映像からなるシリーズのPart4。2時間50分近い長い動画ですが33分10秒付近からGT5クラスのコースインが始まります。古き良き時代の記録です。白いボディに日の丸を模した2本のストライプが入ったスターレットの走りを見てやって下さい。

※ IE(Internet Explorer)でビデオを視聴するのが困難なようです。Chromeやsafari、Firefoxなどのブラウザをご利用下さい

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日本にいては考えられないほど起伏のあるロードアトランタ
ボクが走った1983年はオリジナルレイアウトだった
イラストの⑧のシケインはその後追加されたもの
そして国際レースをやるための安全規定に従って大幅な変更があって
今や昔の面影はないようだ

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当時日本で行われていたスターレットカップレースの車両をベースにTRDが作ってくれた
車両規則はSCCAのほうがゆるいのでサスペンションは3リンク+パナールロッドから
4リンク+ワットリンクに変更してもらった

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1980年代のグレーターロサンゼルスの人口増加で
住宅地になってしまって今はないリバーサイドインターナショナルレースウエイ(RIR)
ターン6のヘアピンを駆け上がる
リバーサイドインターナショナルレースウエイは
1960年代にF1が開催されたし
CAN-AM最終戦の舞台だったし
NASCARストックカーがロードコースで開催された2つのサーキットのひとつ
(もうひとつはワトキンスグレン)

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RIRのコース図
いろいろなレイアウトがとれるけどSCCAクラブレーシングはターン7A~7Bを使う
年に一度だけ3時間エンデューロの時だけSPIKEが使えた
1~5までのダブルエッセスは5速全開
FIAやJAF公認コースではありえない
楽しかった

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RIRのターン6を立ち上がる

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RIRターン7へのアプローチ
坂を駆け上がってクルマが浮いたところがブレーキングポイント

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RIRターン7AをTRD USAのカスタマーのスターレットと連なって

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SCCA南太平洋地区の南カリフォルニアリージョンの機関紙の表紙になったこともある

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その号の表紙キャプション
エヘン

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Japanese sensation だって

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2年目にはTRD USAがスポンサーを探してくれた

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TRD USAのカスタマーにドライビングを教えながら転戦
後ろの45フィートトレーラーにはスターレットを3台収容することができた
85年に子供を授かったので出産費用になってしまったけれど



第325回 遠い昔の思い出 3

自宅のあるファンテンバレー市からクルマで20分ぐらいのサンタアナにAARがあった。All American Racers。日本ではあまり知られていないが、1966年から1969年までイーグルの名前でF1GPに参戦していた。当時のドライバーがダン・ガーニー。AARの総帥。

その後インディ500で2度優勝。インディカーシリーズ用のマシンを購入したカスタマーチームの優勝も数知れず。トヨタワークスチームとして参加していたIMSAスポーツカーレースでは1987年にせりカでGTOクラスのシリーズチャンピオンを獲得。1989年にはスポーツプロトタイプGTPクラスに参戦。デイトナ24時間レース、セブリング12時間といったヒストリック耐久レースを制しながら1992、1993年のGTPシリーズチャンピオンに輝いている。

しかしながら、トヨタ以外のチームがGTPクラスからの撤退を始めたことで統括団体のIMSAはGTPクラスを1993年をもって廃止することを決定。GTPチャンピオンマシンのイーグルMkⅢは走る場所を失おうとしていた。
1982年に米国トヨタワークスチームの設立に携わった者として、F1ほど日本での露出が多くなかったIMSAスポーツカーレースだからこそ、どうしても記事にして残したいとダンに頼み込み、アリゾナ州のフェニックスインターナショナルスピードウエイでチャンピオンマシン、イーグルMkⅢの試乗が実現した。

※ この記事を読むことのできるpdfファイルを用意しました

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カーグラフィック1993年12月号

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IMSA(InternationalMotorSportAssociation)はアメリカのレース統括団体の一つ
デイトナ24時間レースやセブリング12時間レースが有名
デイトナや試乗したフェニックスはもともとオーバルコースだけれど
インフィールドの部分を合わせて使う

325-3
とにかく爆発的な加速に思わず歓声を上げたことを覚えている
それと3速に入るころ身体全体が下に押し付けられるようだったのを覚えている
ダウンフォースがそれだけ強烈なのだ
あれは得がたい体験だった
それとロックツーロックが2回転もないステアリングには驚いた
その上パワーステアリングなのに重かった

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イーグルMkⅢの心臓部は排気量2140cc直4ターボエンジン
730psを7500回転で絞り出し
5200回転で97.2kgmのとてつもないトルクを発生した
イーグルMkⅢの車重は912Kg
200Km/h時に1680Kgものダウンフォーズで押さえつけられるから
天井を裏返しになって走れることになる

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インタビューの中でGTPが終焉を迎え安価なWSCクラスに移行することを聞いた
F1,インディカー、GTO、GTPといった技術の粋を尽くしたマシンを作ってきたダンは
コスト低減のために始まる参加者主導型のツーシーターのWSCには
AARとして興味がないと明言した
根っからのレース屋

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残念ながらダン・ガーニー氏は今年1月14日に亡くなりました
いろいろと無理を聞いてくれたダンに感謝しました

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この時の体験はその後の
クルマの動きの理解と
情報収集 → 解析 → 行動(操作)の習熟
に大いに役立っている


※ 誌面の写真は幸田サーキットドライビングスクールに参加してくれたFさんの蔵書を撮らせていただいた。



第310回 保存ファイルから

ファイルを整理していたら懐かしい写真が出てきた。

ユイレーシングスクールを立ち上げた時から告知はWEBサイトだけだった。そのホームページに月替わりで載せていた写真。どれも1980年代、躍動していたアメリカのモータースポーツを取材したもの。

加工して掲載していたのとオリジナルが手元にないので見難いけど、あの頃のアメリカはクルマを使った遊び方の宝庫だった。日本人にとってはほんとうに眩しい世界だった。

日本では味わえないクルマの楽しさをどう伝えるか躍起になっていた時代が懐かしい。


LAオートショーでのホットロッド
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ロングビーチGPでのCARTインディカー
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ポモナレースウエイでのNHRAドラッグレース(写真左からファニーカー、ファニーカー、プロストックの各クラス)

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ウィロースプリングスレースウエイでのSCCAフォーミュラフォード スゥイフト全盛時代
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たなびくスターアンドストライプ
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リバーサイドレースウエイでのIMSA GTPマシン

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WKA スーパーカート
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ワトキンスグレンのNASCARウィンストンカップ(4枚目は今は亡き大好きだった名手デール・アーンハート)

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ボンネビルソルトレークでのSCTAスピードトライアル
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リバーサイドレースウエイダートストリップでのSCSDAサンドドラッグ
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ロードアトランタでのSCCA Run-off(全米選手権)ショールームストックGTクラス
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世界で一番速いオープンウィール ワールド・オブ・アウトロー
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フェニックスレースウエイでのトラクターレース

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アメリカはクルマの楽しみは無限であることを教えてくれた。
だから。ユイレーシングスクールはクルマの楽しさとクルマを動かすことの楽しさをずっと伝えていきたい。


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