トム ヨシダブログ


第840回 トレーラーバス

トレーラーバスってどんなバス? って聞かれたので探してみた。

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第833回 記憶のかなたの2 に
登場したトレーラーバス
全長を延ばせるだけ伸ばしたトレーラーは
転回時にトラクターとの接触を避けるため
前部が丸くなっている
トレーラーと運転席が異様に近いのがわかる
運転手が運転する様が手の届くところに
 
 
※ウィキペディア:トレーラーバスから引用

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画像を探していて
戦後のトレーラーバスには100人乗り
のものがあったことを知った
大量輸送の先駆けだったようだ
 
乗降口より2段高くなっている最前部は
トレーラーバスの特等席だった
トレーラーバスの記憶がかすかに残る自慢
 
※ウィキペディア:トレーラーバスから引用



第839回 記憶のかなたの3

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少年が育った品川区大井出石町。少年が小学生の頃の話。静かな住宅地だったが近くにPXがあったのでカーキ色に塗られたジープが頻繁に走っていた。それ以外は八百屋さんのオート三輪とおわいやさんのバキュームカーを見かけるほどだった。

 

学年が上がるにつれ少年の行動半径は徐々に広がっていった。原小学校よりずっと遠くにある原町のバス通りに面した小さなお店にも頻繁に通うようになっていた。

圭ちゃんがやっていた間口1間ほどの小さな模型店。天井からはたくさんの模型飛行機がぶら下がっていた。そこがボクと 解良さん との出会いの場だった。

リンゴ箱自動車 を卒業した少年が次に目を輝かせたのがライトプレーン。ゴム動力で空を舞う模型飛行機。作り方次第で滞空時間が長くなる手作りの飛行機。

なにしろ完成品は売っていない。何も知らない少年は、三澤模型からキットを買ってきてとりあえずの工具を揃えて設計図に従って作リ出す。
まずメタルと呼ばれるプロペラシャフトを通す部品に接着剤を点けて胴体の最前部につけて脱落しないようにタコ糸を巻き、糸に接着剤を塗って固める。当時はセメダインという透明な接着剤を使っていたっけ。プロペラを取り付けるのは最後にして、設計図を見て胴体の後ろのほうにキリで穴を開けゴム掛けを差し込みこれまたタコ糸でグルグル巻きにして接着剤を塗って固める。これで動力部分は完成。
飛行機だから翼が肝心なのだけど、これが上手くいかない。キットに入っている翼の骨格になる竹ひごは単純なU字型をしているだけで、一方が湾曲している設計図には合う訳がない。なす術なく最初はそのままU字型の竹ひごをニューム管に差し込んで主翼台に乗っけてタコ糸を井型に交差させて固定。尾翼も同様に組み立てるのだけど、固定する前に胴体に垂直尾翼を差し込むための穴をふたつキリでもんでおく。
胴体に主翼と尾翼と垂直尾翼を組み上げたところで竹ひごに翼紙を貼るのだけど、どうすればいいのかわからない少年は翼紙を竹ひごより大きめに切り、竹ひごより飛び出した部分に切れ目を入れて折り返して糊しろとして使った。完成したのは竹ひごの間で波打つ翼紙と折り返した糊しろが垂れ下がる美しくない翼。少年は、自分の作品が三澤模型で見たA級ライトプレーンとはずいぶん異なることを感じていた。

メタルにプロペラシャフトを通しビーズ、プロペラの順でシャフトに通りてからシャフトの先端をL字型に曲げる。次に脚に車輪を通してから脚の先端をL字型に曲げ、車輪が落ちないようにして脚の根元を胴体にタコ糸で固定する。ゴムの先端同士を結びひとつの大きな輪にしてから何回か折って重ねる。何重かになったゴムをS管に通してプロペラシャフトとゴムかけにかける。

ひととおり完成した自作のライトプレーンだったけど、少年は何かが違うと感じていた。地上高を稼ぐために良かろうと思って倒立させた戸車がすぐにもげてしまった リンゴ箱自動車 の記憶が蘇った。

なんとか圭ちゃんが作るライトプレーンのように作りたい。少年の三澤模型詣でが始まった。何も買わないのに店先で圭ちゃんの仕草に見入っていた。圭ちゃんも根負けしたのか少しずつライトプレーンを作るコツを教えてくれるようになった。それは全てが少年にとって驚きだった。少年は工夫することの大切さを目の当たりにした。

圭ちゃんは、台の上にろうそくを立て竹ひごを炙りだした。U字型の竹ひごは竹の表皮が外側にあった。そこを炙りながら両手の親指と人差し指で少しずつ曲げては伸ばし、たまに設計図に乗せて形を確認する作業が続く。時折り親指と人差し指を舐め、熱くなり焦げそうになった竹ひごに唾をつけて冷やす。それを繰り返すと単純なU字型をしていた竹ひごが、台の上に広げた大きなB級ライトプレーンの主翼の形ピッタリと重なっていた。
主翼を翼型にするために竹ひごの間に渡すリブの取り付け方も独特だった。少年は接着剤だけで切り欠きのあるバルサ製のリブを竹ひごにくっつけていたけど、圭ちゃんは薄い紙を小さな菱形に切って接着剤を塗り、竹ひごを包み込むようにしてリブの上と下を挟んでいた。曲がっている竹ひごにリブをくっつけるのだからズレやすい。その対策だった。
骨格ができあがって翼紙を貼る段階になって、圭ちゃんはかたく絞った濡れた日本手拭いを台の上に広げた。設計図より少し大きめに切り出した翼紙を手拭いの間に挟み、軽く掌でポンポンと。右手の親指と人差し指に糊をつけて竹ひごを挟み指をこすり合わせるように動かしながら翼全体にまんべんなく塗る。そうとはわからないほどに湿った翼紙を竹ひごの上に置き、翼紙をそおっと引っ張りながら竹ひごを包むように指で丸める。少年が余った部分の翼紙を切るのに鋏を使ったのとは違い、圭ちゃんは小刀を持ちだした。竹ひごからはみ出た部分を、竹ひごに小刀の刃を当てながら切っていく。確か「刃を立てると切れない。できるだけ寝かせて」と言っていた。すごく繊細な作業。
そう言えば、主翼や尾翼のニューム管を胴体にタコ糸で固定する方法も教わった。最初、自分なりにやった時はタコ糸をバッテンにかけて固定していた。しかしこれだと翼が揺れた。固定しているのがニューム管の中心の一点だったからだ。圭ちゃんはこうしてこうしてと、ニューム管を二点で支えるように井型に巻く方法を教えてくれた。

完成した圭ちゃん作のライトプレーンは美しかった。乾いた翼紙は皺もなくピーンと張り、まるで竹ひごと翼紙が同じ材質でできているかのようだった。

少年はライトプレーン作りに没頭した。八百屋さんが見える2階の窓辺で一生懸命圭ちゃんの真似をしようと頑張った。結果的に滞空時間を競う荒川の河川敷で行われた東京都の大会に出場するまでになった。

ある日。三澤模型に行くと、ライトプレーンより大きくて重そうで、翼が厚く胴体が太い飛行機を抱えた人がいた。その人が解良さんだった。

〈続く〉

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解良さんとの再会は何十年ぶりだろうか
最後に会ったのはアメリカに行く前だったから
45年は経っている計算になるか



第833回 記憶のかなたの2

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少年が育った品川区大井出石町。静かな住宅地だったが近くにPXがあったので、カーキ色に塗られたジープやトラックが頻繁に走っていた。それ以外は八百屋さんのオート三輪とおわいやさんのバキュームカーを時おり見かけるほどだった。

 

法事で浅草のお寺にお参りした後、やっ古で鰻をいただくのが習わしだった。

何歳の時か忘れたが自動車雑誌の仕事を始めていたと思う。親戚一同が集まった席で、車が好きでその道を選んだことを知っていたいとこが「昔からホントに車が好きだったからな。将来何になりたいか聞くと必ず、毎日車に乗れるおわい屋さんだったもんな」と笑った。

別のいとこが「世話を焼かせたよな」と笑う。小学校に上がる前だったと思う。当時、品川駅を出発して原町や荏原町を回って品川駅に戻る循環バスというのがあった。まだトラクターが客車となるトレーラーを黒煙を上げて引いていた時代。少年はたまにしか来ないトレーラーバスに乗りたくていとこやおばさんの手を煩わせていた。
当時トレーラーバスに乗ることが少年にとって無上の喜びだった。トレーラーの一番前の席に座ると目の前にトラクターがあって、長いバスを操る運転手さんの一挙手一投足を見ることができた。車を操る現場を目撃することができたことが幸せだった。
ふつうは乗った距離の運賃を車掌さんに払い目的地で降りるのだけど、少年はずっと運転手さんを見ていたかった。原町から乗車し一周し原町が近づくと「もう一周したい!」と駄々をこねたことを付き添ってくれたいとこは覚えていた。いとこが車掌さんとどういう交渉をしたかは知らないけど、一周で降りたことのほうが少なかったように思うのだけど。

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少年は品川区立原小学校に通っていた。小学校に上がる前から身体の弱かった少年は1年生の時に既に眼鏡をかけ、体育の時間の運動を免除されていた。
友達と野球がしたいと親にグローブを買ってもらうのだけど、ボールを上手くさばけない少年はグローブを親分肌に取り上げられ素手で外野の球拾いが持ち場になった。

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運動は大の苦手で今にいたるまで跳び箱と逆上がりは成功した試しがない。それでも少年の小学生時代が俗に言う『暗かった』ということはない。

 

身体を動かすのが得意ではなかった少年だけど、興味のあることには没頭した。それはお絵描きであり工作であり作文だった。

小学1年生の担任だった長身で美人の大塚先生が憧れの的だった。大塚先生に褒められたくて好きなことに没頭した節もある。大塚先生にとっては当たり前のことだったのかも知れないけど、絵や工作を褒めてくれることは少年にとって前に進む原動力だった。

少年は作文で車のタイヤについて書いたことがある。『自動車のタイヤはかわいそうだな。回るたびにへこんでの繰り返しだから』といった内容だった。大塚先生はその作文を読んで、『すごく細かなところにも目を向けているのね。よほど車が好きなのね』というようなことを言ってくれた。学校の先生にも自動車が好きなことをわかってもらえた。たいそう嬉しかった記憶がある。

タイヤは平らな部分があるからこそ自動車を走らせることができる。少年はたぶん、そうイメージできていたに違いない。



第832回 記憶のかなたの1

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少年が育った品川区大井出石町。近くにPXがあったのでカーキ色に塗られたジープやトラックが頻繁に走っていた。それ以外は八百屋さんのオート三輪とおわいやさんのバキュームカーをたまに見かけるほどの静かな住宅地だった。

 

出石町には、地面にボールを置くとちょっとの間をおいて転がりだすほどの坂道がいくつかあった。少年の家の前の細い道も大通りに向かって下っていた。家の前の八百屋さんのお兄さんや近くに住む年上のいとこの手を借りて作った『りんご箱自動車』で坂を下るのが少年の楽しみだった。

それが小学何年生の頃の話だったか記憶が怪しいけど、リンゴ箱に収まったのだから高学年ではなかったろう。それでも少年はみっつの発見をしている。

りんご箱の底に横向きに4枚の板を打ち付け、鉄製の戸車を板を下駄にして取り付けた自動車。何度も繰り返し走らせたのだろう。地上高を稼ぐために本来の使い方ではなく車軸が取り付け面より下にくるように取り付けた戸車は容易にもげてしまった。戸車を取り付ける2本の木ネジにかかる応力が大きいのが原因だった。それ以来、板を2枚重ねて戸車を本来の向きに取り付け車軸とシャーシ=リンゴ箱の距離を縮めて剛性を上げた。

ある時、鉄製の戸車が荒れたアスファルトの路面を転がる音がうるさいので、当時珍しかった樹脂製の戸車を取り付けたことがあった。確かに走行音は低くなったけど、ものの数回でタイヤがちぎれてしまった。自動車の車輪には丈夫さが必要なことを痛感した。

幾度も坂を下っているうちに、本物の自動車のように『舵』が切れるようにしたくなった。丈夫な長い板の両端に戸車を取り付け、その板を太い釘でリンゴ箱の中央に留めた。板の端を両手で持って右や左に回せばリンゴ箱の向きが変わるはずだった。しかし、転がっているリンゴ箱は手を動かしたその一瞬はリンゴ箱の前側がわずかに向きを変えるような動きをするものの、次の瞬間には失速。坂を下ることも動くこともやめてしまった。
車輪の向きを変えれば自動車の向きも変わる。そんな単純な話ではなかった。アッカーマン方式のステアリングなど知るよしもない小学生。それでも「車輪が横を向くと抵抗になる」ということは学んだ。

八百屋さんがくれたリンゴ箱が少年に「移動する楽しさと喜び」を教えてくれた日々ははるかかなたに。