トム ヨシダブログ


第873回 記憶のかなたの9

1979年9月。1ドルが230円と円安の中。無謀にもなんのつてもないアメリカに渡った。異国の地の生活はそれはそれは大変だったけど、アメリカのモータースポーツを見て肌で感じ味わうたびに、アメリカに来たことが大正解だったことをかみしめる毎日を送ることができた。

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アメリカでの思い出はそれこそ語りつくせないけれど、記録が残っているアメリカンモータースポーツシーンを紹介したい。

第273回 遠い昔の思い出 1 (2018/1/19) CG1993年9月号 人にやさしいモンスター/トヨタスタジアムトラック試乗
第274回 遠い昔の思い出 2 (2018/1/17) CG1994年3月号 グラスルーツのNASCARストックカーに乗る
第325回 遠い昔の思い出 3 (2018/11/12) CG1993年12月号 最後のスポーツプロトタイプに乗る/AAR Eagle MkⅢ 試乗
第740回 遠い昔の思い出 4 (2023/8/19) CG1994年10月号 280Km/hのコーナリングにしびれる
第793回 遠い昔の思い出 5 (2024/6/12) CG1994年2月号 オーバルトラックのグラスルーツ/ミヂェットカー体験試乗記



第867回 記憶のかなたの8

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遠い昔の思い出7から続く

 

池沼選手が2TGエンジンを積んだチューブフレームのバギーで挑戦したBAJAインターナショナルレースは無事に終わった。
池沼選手は事務局を担当していた日本オフロードレース協会が1976年に SCORE (Southern California Offroad Racing Enterprises:現存)に派遣したものだけど、日本人ドライバーが海外のオフロードレースに挑戦した最初の例になる。

サンディエゴからさらに南下し国境を越えてメキシコ領ティワナへ。ティワナからさらにクルマで南に1時間。バハカリフォルニア西岸、太平洋に面した港町エンセナダがスタート地点。カラフルな街並みに続々とオフロードマシンが集まってくる。カブト虫と呼ばれる空冷エンジンのVWを改造したBAJA BUG。Tubeと呼ばれるパイプスペースフレームにVW空冷エンジンを搭載したバギー。全てと言っていいほどVWの空冷OHV水平対向エンジンを積んでいた。当時は改造パーツが豊富でメンテナンスも容易だった。だから車検場ではダブルオーバーヘッドカムの水冷4気筒エンジンは注目の的だった。

確か2輪を含め300台近いエントリーがあったと記憶する。クラス毎に分かれた参加者が1分間隔でエンセナダの市街地を駆け抜ける。

BAJA500と呼ばれていたこともあったようだけど、1976年はBAJA Internationalとしてカリフォルニア半島を横断してカリフォルニア湾に面した港町サンフェリペで折り返しエンセナダに戻る420マイル=670Kmのレースだった。

レース参加者は砂漠の中を走るのだが、たまにバハカリフォルニアを縦断する国道1号線の近くをコースが通っていたり横切ったりする。そのあたりにサポート部隊が設営していた。ボクもマシンの近くに寄れる場所を探して写真を撮った。コダックのKRの時代。
ところどころに民家が建っていた。人づてに家畜の糞をブロックにして積み上げたものだと知った。オフロードカーのジャンピングスポットには大勢の地元の人が集まっていた、どこから来たのかは見当がつかなかった。

LAに戻ると日本を発つ前に手配していたトヨタとマツダの広報車を試乗した。日本にはない2.6リッター直6を積んだスープラXXは確かに加速はよかったけど、フリーウエイの鋲を踏んだ時のショックとノイズが大きかった。バネ下が暴れているよだった。マツダのGLC(日本名ファミリア)も同じだった。ロードノイズも大きかった。路面がアスファルトではなくコンクリートなのが原因かなと思った。

余談になるけど、アメリカのフリーウエイの車線を分けるのは白線ではなく、一定の間隔で置かれた高さ5センチはゆうにあろうかという鋲。速度が高いから避けるまでもなく踏む確率は高く、それなりのショックとノイズがあるから車線を変更したとの自覚が生まれる。しかも鋲に埋め込まれたキャッツアイ=反射板は白色なのだけど、何車線あろうと最も右に並ぶ鋲、すまわち路肩に最も近い鋲に埋め込まれたキャッツアイ=反射板は黄色なのでその右側が路肩だとわかる。だから街路灯もない真っ暗なインターステイツをヘッドライトだけを頼りに走る時でもそれほどの不安はない。
最初にアメリカで鋲を踏んだ時には邪魔だなと思ったものだけど、近ごろ新名神から伊勢湾岸に乗る時の大きなダブルS字の白線が消えていて夜間にどの車線を走っているのか覚束なかった時、日本でも車線を分けるのは鋲にしたほうがいいと確信した。そうはならないと思うけど。

LAではチャイニーズシアター前のルーズベルトホテルに泊まった。近くにアービーズというファストフードがあった。初めてローストビーフサンドイッチなるものを食べた。衝撃だった。ハンバーガーとは違う肉々しい美味しさ。アメリカにいる間、備え付けのホースラディッシュとアービーズソースをたっぷりかけて何度食べたことか。

867-1 日本に進出したと思ったアービーズが撤退してしまったのが残念

ある日ハリウッドから南に30分ほどのところにあるガーディナに行った。当時アメホン=アメリカンホンダの本拠地があった。用事をすませ夕方アスコットパークに向かった。話に聞いていたダートのオーバルコースで行われるレースを見るためだった。

昔からモータースポーツはクルマの究極的な使い方だと思っていた。運転が上手いと胸を張れるほどの自信はなかったから、はなからレーシングドライバーになるつもりはなかったけれど、モータースポーツの全てが知りたいという欲求は強かった。

中学時代から読み始めた自動車雑誌の記事から、アメリカを代表するモータースポーツはインディ500とデイトナ500だと結論付けていた。結果的にそれは間違いではなかったけど、アメリカのモータースポーツの巨大さは日本にいて知ることはとうてい無理だった。
1979年にアメリカに居を移してアメリカにどっぷり浸かった生活を始めて、初めてインディ500のルーツがアメリカのそこかしこにあるオーバルコースだと知った。

そのオーバルコースでは有名なアスコットパークスピードウエイに足を踏み入れる。プーンとなんかの匂いがする。グワッというような暴力的な音が絶え間なく聞こえてくる。行きかう観客はみな透明のカップに入ったビールを持っている。トイレがおしっこ臭い。コースを見渡せるスタンドに登る。目の前で車輪がむき出しのマシンがカウンターステアを当てっぱなしでグルグル回っている。リアタイヤはドラム缶の輪切りに見えた。

プログラムを買った。状況がわかってきた。走っていたのは400馬力ほどにチューニングしたアメリカンV8を積んだスプリントカーだった。エキゾーストパイプは直管だった。アスコットパークスピードウエイは西海岸で有名なハーフマイルトラック=1周800mのダートトラックだった。最初に鼻をついたのはスプリントカーがメタノール燃料を燃やしていたからだった。
プログラムの終わりの方にインディ500に続くピラミッドが描かれていた。いくつものカテゴリーが載っていた。スプリントカーは登竜門の1番上にあった。そしてピラミッドの底辺に4歳から始められると謳ったクォーターミヂェット=4分の1ミヂェットが載っていた。その昔、立川飛行場のオーバルコースでアメリカ人の子供が楽しそう乗っていたのに自分は乗れなかったあ・れ・がクォーターミヂェットと呼ばれていることを知った。

ようやくアメリカンモータースポーツの全体像の端っこが見え始めた。初めてのアメリカはホントにホントにゾクゾクの連続だったのを覚えている。

792-5 スプリントカーの弟分のミヂェット


第793回 遠い昔の思い出 5
(2024/6/12)
CG1994年2月号 オーバルトラックのグラスルーツ/ミヂェットカー体験試乗記

<続く>



第325回 遠い昔の思い出 3

自宅のあるファンテンバレー市からクルマで20分ぐらいのサンタアナにAARがあった。All American Racers。日本ではあまり知られていないが、1966年から1969年までイーグルの名前でF1GPに参戦していた。当時のドライバーがダン・ガーニー。AARの総帥。

その後インディ500で2度優勝。インディカーシリーズ用のマシンを購入したカスタマーチームの優勝も数知れず。トヨタワークスチームとして参加していたIMSAスポーツカーレースでは1987年にせりカでGTOクラスのシリーズチャンピオンを獲得。1989年にはスポーツプロトタイプGTPクラスに参戦。デイトナ24時間レース、セブリング12時間といったヒストリック耐久レースを制しながら1992、1993年のGTPシリーズチャンピオンに輝いている。

しかしながら、トヨタ以外のチームがGTPクラスからの撤退を始めたことで統括団体のIMSAはGTPクラスを1993年をもって廃止することを決定。GTPチャンピオンマシンのイーグルMkⅢは走る場所を失おうとしていた。
1982年に米国トヨタワークスチームの設立に携わった者として、F1ほど日本での露出が多くなかったIMSAスポーツカーレースだからこそ、どうしても記事にして残したいとダンに頼み込み、アリゾナ州のフェニックスインターナショナルスピードウエイでチャンピオンマシン、イーグルMkⅢの試乗が実現した。

※ この記事を読むことのできるpdfファイルを用意しました

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カーグラフィック1993年12月号

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IMSA(InternationalMotorSportAssociation)はアメリカのレース統括団体の一つ
デイトナ24時間レースやセブリング12時間レースが有名
デイトナや試乗したフェニックスはもともとオーバルコースだけれど
インフィールドの部分を合わせて使う

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とにかく爆発的な加速に思わず歓声を上げたことを覚えている
それと3速に入るころ身体全体が下に押し付けられるようだったのを覚えている
ダウンフォースがそれだけ強烈なのだ
あれは得がたい体験だった
それとロックツーロックが2回転もないステアリングには驚いた
その上パワーステアリングなのに重かった

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イーグルMkⅢの心臓部は排気量2140cc直4ターボエンジン
730psを7500回転で絞り出し
5200回転で97.2kgmのとてつもないトルクを発生した
イーグルMkⅢの車重は912Kg
200Km/h時に1680Kgものダウンフォーズで押さえつけられるから
天井を裏返しになって走れることになる

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インタビューの中でGTPが終焉を迎え安価なWSCクラスに移行することを聞いた
F1,インディカー、GTO、GTPといった技術の粋を尽くしたマシンを作ってきたダンは
コスト低減のために始まる参加者主導型のツーシーターのWSCには
AARとして興味がないと明言した
根っからのレース屋

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残念ながらダン・ガーニー氏は今年1月14日に亡くなりました
いろいろと無理を聞いてくれたダンに感謝しました

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この時の体験はその後の
クルマの動きの理解と
情報収集 → 解析 → 行動(操作)の習熟
に大いに役立っている


※ 誌面の写真は幸田サーキットドライビングスクールに参加してくれたFさんの蔵書を撮らせていただいた。



第273回 遠い昔の思い出 1

昨年YRS幸田サーキットに参加してくれたFさんが、ご自身が保存している自動車雑誌の中からボクが昔書いた記事を見つけてくれた。
アメリカに行く前も行ってからもあちこちの雑誌に書いたけれど、手元には残ってないので懐かしいやら嬉しいやら。感謝です、Fさん。

※ この記事を読むことのできるpdfファイルを用意しました

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カーグラフィックの1993年9月号
当時西海岸で大人気だったスタジアムオフロードレース
街中にあるスタジアムに大量の土を運び込んでジャンピングスポットが連続するコースを作る
砂漠まで行かなくてもオフロードレースの醍醐味を味わえる
それに参加していた米国トヨタのファクトリーチームPPIのマシンの試乗記がこれ


[この部分は2025年11月加筆:84年のロサンゼルスオリンピックで馴染みの深いLAメモリアルスタジアムがオフロードコースになった。聖火を掲げた走者がのぼったあの長い階段の両脇が上りと下りのコース。左側のデコボコのコースを駆け上がりアーチをくぐってバックヤードに。Uターンして階段右側のコースをジャンプしながら駆け下る。あの迫力もさることならら、「よくこういうことを考えて実行するもんだ」とますますアメリカに畏怖の念を抱いたことを覚えている]

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1979年にアメリカオフロードレースの大御所ミッキー・トンプソンが砂漠を街中に再現
ピックアップが稼ぎ頭のメーカーはこぞってスタジアムオフロードレースに参戦
2台のモンスターを走らせたPPIは9回ものマニュファクチャラー選手権を獲得

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「ガワ」はトヨタのピックアップだけど中身は別物
パイプで組んだチューブラスペースフレームにV6の2,850cc300馬力のエンジンを搭載
前進1段後進1段のATでデフをもたないソリッドアクスルを介して後輪を駆動
1,260Kgの車重を支えるのは前後とも483mmのストロークをもつサスペンション
コイルスプリングは3種類が同列にならびショックはストロークスピード感応式
フェンダーを手で押すと沈むほどにイニシャルスプリングは柔らかい

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ベンチュラにあるPPIのテストコースで乗ったのだけど
クルマは人間の能力拡大器だと信じているボクにとって
横G縦Gに加えて浮揚感まで感じられるクルマはたいそう楽しかった
ずいぶん時間は経ったけど
あの時の経験は今でも役に立っている