トム ヨシダブログ


第101回 鈴鹿サーキット

中学2年か3年の時。鈴鹿サーキットで行われた大きなレースの昼休みに、アトラクションとして中学生以上の少年を対象としたカートレースがありました。遊園地のゴーカートを持ってきて、ホームストレートにパイロンでコースを作りタイムを競いました。
それまで鈴鹿サーキットに行ったことはなかったのですが、『子供でもレースができる』という誘惑には勝てず無謀にも挑戦しました。当時鈴鹿サーキットのゴーカートはカブのエンジンをそのまま搭載していた、いわゆるミッション付きカート。3速のギアを駆使して走るものだと思っていたのですが、実は2.8%下り勾配のストレートでは2速発進で良かったのです。そんなことを知る由もなくアップシフトしている間に抜かれて結果は散々。それでも初めて4本のタイヤがついた乗り物を自分で操り、あこがれのサーキットを走った瞬間でした。
いつ、どんなレースのアトラクションだったかは失念しましたが、あの悔しさとストレートの向こうにキラキラ輝いていた伊勢湾の風景は今も記憶の片隅にあります。

10代後半から20代になって日本を脱出するまでの間、鈴鹿サーキットで行われた大きなレースでコースオフィシャルを勤めました。危険な状況が生まれた時、コーナーポストからレース中のドライバーにイエローフラッグを振って知らせます。レースの合間に竹箒でコースを掃くのも大事な役務でした。
とにかく、自分がレースに出られる状況ではなくても、否、ないからこそレースのそばにいてレースに浸かりたかったというのが動機でした。目の前を280キロで駆け抜けるマシンを見続けているうちに、速いドライバーと遅いドライバーの走り方に違いがあることや、スピンにいたる原因がわかるようになりました。
雑誌でしか見たことがなかった有名なドライバーに「外から見ていてあのコーナーの突っ込みはどうだった?」と聞かれたりするうちに、レースに参加している人たちは猛烈に頭を使っているということも教えられました。

1979年にアメリカに居を移してからは鈴鹿サーキットとも疎遠になりましたが、1993年からツインリンクもてぎの立ち上げに関わるようになってから、再び鈴鹿サーキットを訪れる機会が増えました。現在はなくなってしまいましたが、サーキットホテルの東にあったダートオーバルでアメリカから持ち込んだミヂェット(410Kgのシャーシに320馬力のNAエンジンを搭載)の走り方を披露したり、アメリカンモータースポーツ導入のお手伝いをしました。


日本に持ち込んだミヂェット

残念ながらツインリンクもてぎでも鈴鹿サーキットでも定着するまでにはいたりませんでしたが、その当時は関係者全員が見て楽しいやって楽しいアメリカンモータースポーツを広めようと必死でした。

ユイレーシングスクールは1999年12月に日本での活動を開始。生活の軸足も日本に移し終えた2012年。9月2日に鈴鹿サーキットの開場50周年を記念する祝賀会が開催されました。

そんな、自分の記憶の中で今も鮮明さを保っている鈴鹿サーキット。そこでドライビングスクールを開催することは当然の帰結でした。
ただ、世界有数のテクニカルコースである鈴鹿サーキットはポンと走って楽しいコースではないので、2012年と2013年にレーシングコースの西半分を使ったドライビングスクールを開催し高速コーナーに慣れてもらうことから始めました。

そして、長い長い時間が経ち鈴鹿サーキットの景色もずいぶんと変わりましたが、ついに自分の原点とも言える鈴鹿サーキットレーシングコースで、次の世代にクルマを操ることの楽しさを伝えることができるドライビングスクールを開催することができました。


関東からの参加組が8割でした

その日は汗ばむほどの快晴。あの日と同じように伊勢湾がキラキラと輝いていました。


第100回 YRSオーバルスクール


参加者全員で記念撮影

ユイレーシングスクールは日常の運転中にも、自分の操作が間違っているのか、70%正しいのか、95%正しいのかを受講者自身が判断できる基準を覚えてもらうことを第一義としています。

クルマが加速、減速、旋回の機能を組み合わせて動いている間、人間がスロットル、ブレーキ、ステアリングを必要な時に必要な量だけ必要な速さと必要な方法で操作しているかを検証するわけです。
つまり、操作と挙動の因果関係を反復練習で身につけてもらい、クルマの運転でやってはいけないことの領域を排除しつつ、やったほうがいい領域を少しずつ増やすことで、やらなければならないことを正確にできるようになることを目指します。


加速→減速→旋回

言葉を換えれば、寡黙なクルマさんの主張は聞こえづらいので、その声にならない声を拡大してお届けしようというのがユイレーシングスクールのカリキュラムの主眼です。

このプロセスが最もよく理解できるのがユイレーシングスクールが考えたオーバルスクール。元々はジムラッセルレーシングスクールのインストラクターをやっていた時に始めたものです。


スロットル→ブレーキ→ステアリング

ルノーの、特にRSに乗っているユーザーは、その繊細な動きを理解するためにも、YRSオーバルスクールを受講してみて下さい。


左から東京のTさん、鹿沼のKさん、東京のKさん

今回は3台のルーテシアRSが参加。示し合わせたわけではないのに、朝来てみたら全員が知り合いだったという…。


第99回 近江の国


庭の姫りんご

湖西に終の棲み処をかまえて4回目の春。比良山系の懐に抱かれているからか、冬はとても寒いし夏はかなり暑いのだが、自然がいっぱいで新緑におおわれる時期は最高。


庭の芝桜

歩いて行くには少し遠いが、近くに琵琶湖がある。湖西に来るまでは大きな湖というイメージしかなかったのだが、出かけるたびに目にするものだから少しずつ知識がふえてきた。


琵琶湖にも水平線がある


琵琶湖にはさまざまな表情がある

滋賀県地域を近江の国と言うのは知っていたけど、近江の代わりに淡海という単語を使うことがあるのも湖西に来てから知った。琵琶湖が淡水湖だからだろうな、風流だなと思っていたら、古事記にも記載があるらしい。
鮎や鮒や蜆。琵琶湖で採れる食材がことのほか多いのも来てから知った。

湖北まで足を伸ばしたり、湖東から比良山系を仰いだり。いろいろな表情の琵琶湖を楽しむうちに、実は、琵琶湖が病んでいることも知ることになる。外来魚が琵琶湖の生態系を損なっているというのだ。もともとは観賞用に飼われていた外来魚が放流されたのが始まりらしい。
琵琶湖のあちこちに生け簀があったり、「外来魚買います」なんてのぼりを見かけたから、なんなのかなと思っていたら、そんなことだった。

外来魚から、


琵琶湖を守るため、


生け簀を用意したり


琵琶湖で釣りをする人の協力をあおいでいる

そのためばかりではないらしいが、滋賀県では琵琶湖総合保全整備計画(マザーレイク21計画)を策定し現在は2期目に入っている。条例で外来魚の放流はもちろん、琵琶湖で吊り上げた外来魚の再放流も禁止している。
それでも新種の外来魚が見つかったり、近年では外来種の水草が異常に繁殖したりで、琵琶湖が昔の姿に戻る道は遠いようだ。

みんな忙しいから琵琶湖のことなど見過ごしがちなんだろうけど、ボクも忙しいけど、いつも自然に対して畏怖の念を持ち続けたいと思っている。クルマに対する畏怖の念同様に。


まずはできることから

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話は変わるが、同じ滋賀県のこと。

先日、免許証の更新に行ってきた。その時にもらった滋賀県警の資料に見過ごせない数字があった。


単独事故と単独事故による死者の割合

平成25年中に滋賀県で発生した交通事故件数は7,836件で事故死者数が74人なのだが、その中で単独事故による死者数が21人。実に28.4%にのぼるとあった。発生総件数7,836件に対する単独事故件数が388件で5.0%。事故そのものは少ないのに死傷者数は人対車両の23.0%を上回る。
上の表には23年までの数字しかないが、ここ数年20%前後で推移していた全国の単独事故死者数よりかなり多い。理由がなんであれ相手のいない単独事故は、防ごうと思えば防げるはずなのだから、滋賀県に住む人間としてはいささか残念な数字ではある。