今年のYRS鈴鹿サーキットドライビングスクールには鈴鹿サーキットを走ったことがない方が5名参加。クルマの動かし方には過去に参加してくれたYRSツーデースクールやYRSオーバルスクールで慣れてはいると思うけれど、速度域が高くレイアウトも複雑な鈴鹿サーキットをぶっつけ本番で、しかもできるだけ速いペースで走って日本のモータースポーツの聖地を楽しんで下さい、と言うのは少しばかり無理があるかなと。それに今回は雨。ウエット。
というわけで、鈴鹿サーキットを占有走行する時の決まり事でもあるセッション開始時の完熟走行をユイレーシングスクールに任せてもらって、メガーヌRSトロフィーをリードカーに。初体験組の5名に真後ろに連なってもらい「車両間隔はクルマ3台分まで。リードカーはペースのいかんに関わらず走行ラインを含めてその地点でやるべきことをやりますから、全員その真似をします。リードカーと違うことをやると後ろのクルマに間違ったことが伝わりますから何も考えずに集中して前のクルマの真似だけをして下さい。1周目はストレートを通過します。2周目にピットインをしますからピットロードを含めてコースレイアウトを頭に入れて下さい」とミーティングで確認。
完熟走行は何周やってもいいのだけど、自分のできる範囲を確認しながらペースアップしていってほしいから、みんなの走行時間を増やすために2周のみ。あとは参加者が慎重に探りながら、それでいてメリハリのある運転をしてほしいと念じつつピット前を通過する1台1台を目で追う。
ゆっくり走っていては完熟走行にならないし後ろがついてこれない速度で走っては意味がないし、リアビューミラーとにらめっこをしながら踏むところは踏んで走ったのが次の動画。ご覧いただければウエット時にどこに川ができるかとか、現在の鈴鹿サーキットのコースレイアウトがわかります。
毎年1回ユイレーシングスクール卒業生を対象に開催しているYRS鈴鹿サーキットドライビングスクール。2年続けてウエットコンディションでシケインのオーバーランや軽微なコースアウトはあったものの1時間x2回のセッションは無事終了。最後の総括で、朝のミーティングの時の緊張気味の顔とは異なり、参加者全員の満ち足りた顔を見ることができたのが大収穫。最年長77歳のYさん、次回もぜひ参加して下さいね。
閑話休題。鈴鹿サーキットに対する思いです。
※ 以下長文ですが文末に鈴鹿サーキットのオリジナルレイアウトを走っている車載動画があります。
中学生の時、立てた教科書の手前に隠して自動車雑誌を読んでいた。クルマそのものにももちろん興味があったけれど、いつも後ろのほうに載っていたモータースポーツの頁が好きだった。かっこいいと思った。漠然と将来レーシングドライバーになりたいと思っていた。
今から51年前の3月6日。鈴鹿サーキットで初めて旗を振った。自動車レースの近くにいたかったという動機。
旗を振る、とはレースの予選や決勝の時にコーナーポストから走行中のドライバーに旗で合図を送ることだ。ポストの先でアクシデントがあれば黄旗。コース上にオイルが出ている場合は赤黄縦じまのオイル旗。救急車などの低速走行車があれば白旗、等々。
以後、1979年9月に拠点をアメリカに移すまで鈴鹿サーキットレーシングコースで行われたレースには1度も欠かさず旗を振りに行った。そしてそれが後に自分がレースに出る段になって大きなアドバンテージになり、さらにドライビングスクールを主宰する上でも大いに役立っているという話。
ちなみにコースオフィシャルとして鈴鹿サーキットに通っていた頃はまだオリジナルレイアウトのままだった。安全性の向上を図りF1GPを開催するためにグレード1を得るためのコース改修は80年代に入ってからになる。
速度を落とすためのシケインはまだ設けられておらず最終コーナーはひとつの大きな下りのコーナーだった。100Rの1コーナーから先は70Rの2コーナーまで明確な直線があり60Rの3コーナーに続いていた(現在は100Rの1コーナーと60Rの2コーナーをごく短い直線でむすんでいる)。S字の逆バンク手前の左コーナーの曲率は現在よりきつく、ダンロップコーナーは現在よりかなり外側を通っていた。現在ふたつのコーナーからなるデグナーカーブは80Rの行けども行けども先の見えないひとつのコーナーだった。今より大幅に外側を外側を通っていたスプーンカーブ手前には今より長い直線がありスプーンの進入には大幅な減速が必要だった。スプーンの1個目と2個目の間にもフル加速できるほどの直線があった。現在は85Rと340Rの複合コーナーである130Rは、左手の山が迫っていて出口がなかなか見えない半径130mのひとつのコーナーだった。デグナーも130Rも直線が直接円弧につながる、つまり入り口にも出口にも緩和曲線のないずっと横Gがかかり続けるコーナーだった。当時のコース全長は6004m(現在は5807m)。130Rでちょいとブレーキングするだけでスプーン立ち上がりから1コーナーまで全開も可能というとんでもないダイナミックなコースだった。
コースオフィシャルとしてあちこちのポストで旗を振った。それはそれは得難い体験だった。目の前を走るクルマも最高速度270Kmのレーシングカーだったり、足を固めただけエンジンノーマルのセダンだったり、ウェーバーキャブの吸気音がたまらない高度にチューニングされた特殊ツーリングカーだったり。それらを操るドライバーも多彩。慣れてくるとドライバーそれぞれの癖がわかるようになった。さらに予選結果と照らし合わせると、速いドライバーの運転の仕方と速くないドライバーの運転の仕方に違いがあることを見つけた。とにかくポストによっては10m先をレーシングカーが全開で駆け抜けていくという体験をした。走行ラインによってスロットルを開ける位置が異なるのを知った。ターンインの位置とイニシャルのステアリングでこのマシンはコースアウトするな、と予測できるようになった。クルマの動きを見て、こういう操作をしているのだろうなと想像できるようになった。
旗を振っていた日々。目の前を、いったい何台のクルマが全開で限界ぎりぎりで駆け抜けていったことか。結果的に、旗を振り続けたことが自分の運転に対する観察眼を養うのに役立ったのは間違いない。今にして思えば、他人の走りを観察しているうちに『運転という行為』そのものを俯瞰することが無意識にできるようになったのではないかと。
役務態度が良かったとかで数年したら1コーナー入り口に位置する4番ポストの箱長(ポスト主任)が定位置になった。雨のレースで1コーナーからコースアウトしていたフォーミュラカーを押そうとしていたら続いてコースアウトしてきたマシンにひかれそうになったとか、FJ1300レースで2台がクラッシュ炎上してドライバーが火だるまになって逃げるのを消火器を持って追いかけたとか、そんな断片的な思い出もあるけれど、それよりも、当時国内最高峰のだったF2000レースで顔見知りになった優勝経験もあるドライバーのTさんから「吉田君、今回も見ていてくれた?ボクはどこでアクセル放してる?〇君とどっちが奥?」なんて聞かれることになって少し得意だったのを覚えている。自分の観察眼が役に立っていると思うから、ますます耳をそばだて目を凝らしたものだ。基本的にオフィシャルは有志の集まりではあるけれど、モータースポーツのこっち側にいるんだという意識は得難いものだった。
アメリカに居を構えてからもけっこう頻繁に日本に1時帰国をした。自分の中では1979年9月にジャーナリストとして初めて自動車輸出専用船で千葉からポートランドまで太平洋を渡ったのが貴重な体験だけど、パスポートを見返してみると2017年まででちょうど日米を100回も往復していた。
で、1981年に1時帰国した時にホンダの販売店をやっていたオフィシャル仲間のYさんが「クルマ貸すからレースに出てみない」と誘ってくれた。この頃にはアメリカでレースを始めることが視野に入っていたから出てみるのも悪くないと、急いでA級ライセンスを取ってレーシングギアを用意して鈴鹿に駆け付けた。出場したレースは1月11日に開催された新春鈴鹿300キロ自動車レース。シビックのワンメイクレース。ドライバーは2名なのでYさんチームのレギュラードライバーのOさんと組むことになった。慌ただしくも車検を通過してさあ予選というところで、それまで鈴鹿レーシングコースを自分の運転では走ったことがないことを再認識した無謀ぶり。
コースオフィシャルはタワー(管制塔)横から各ポストにマイクロバスで送られ、予選なりレースが終わるとまたマイクロバスが拾いにきてくれるから1回のレースで4周はコースを回ることになるけど自分で走ったことは皆無。それでもなぜか焦ってはいなかった、と思う。30分の予選をOさんが最初に走り途中交代して初めて自分で運転してレーシングコースに乗り入れた。確か35台出走で予選落ちが出るくらいだからたいそうな台数がコース上にいてもまれながらの走行だったような気がする。1コーナーから3コーナー、S字を登って逆バンク。初めて自分でクルマを操ってコースを走るのに妙に落ち着いていたような記憶がかすかに残る。10数分足らず。間違いなく最短の練習時間でレースに参加したドライバーというのが誇りでもある。
予選はもちろんOさんのタイムで15番手だったか。翌日の決勝レースのスタートドライバーもOさん。途中で交代する作戦。Oさんが、確か数台を抜いてピットインしてきて慌ただしく交代してコースイン。ピットアウトする時、3~4台が団子でストレートを駆け抜けていった。この時のことをすぐにでも感想文にでもしておけば良かったと思うほど、初めてのレースとは思えないほど順調にレースの流れに没頭できたと記憶する。
しばらくすると前を行く3台の集団に追いつく。3台は3台で牽制しあっているからペースが上がらず、3台の最後尾の真後ろまで追いつく。なにしろスプーンカーブを立ち上がると130Rで軽いブレーキングはするけど1コーナーまでは全開。下りの最終コーナーなんて全開なのにお尻が出たがる。10周もしていないサーキットでそんな走りができたのも、あちこちのポストで他人の走りを観察してきたからかなと考えていた。ダンロップの上りでスリップが効いているのはわかるけど、前のクルマのイン側にいたほうが効きがいいのか外側にかくれたほうがいいのか違う走行ラインを試した記憶がある。冷静だった。
とにかく、シビックのスリップストリームが効くのに驚いた。ホームストレートは下りだからかあまり効果がなかったけど、下ってからかなりの上りになる裏のストレートではスロットルを緩めないと前のクルマに追突しそう。で、坂を上り切ったあたりで前のクルマの横に出る。そのままスロットルを開けていると追越しちゃうから、『スリップを抜けると加速しないね』と嘘ぶいてスロットルを抜きながら、首を傾げて悔しがるふりをしつつ後ろに戻る。なにしろ3台の後ろでゴールすればポジションを守ったことになるから上出来。欲張る必要はない。
そして確かフィニッシュまで4周だったか。130R手前の24番ポストでイエロー1本の振動が25番ポストでイエロー2本の振動が出ている。見ると25番ポスト先のアウト側で1台のシビックが転倒している。レース規則では黄旗が出ているポストから事故現場まで追越し禁止。鈴鹿の場合、事故が大きければ直前のポストで黄旗の2本振動、その手前のポストで1本振動、その手前で1本静止を提示するローカルルールがあった。黄旗が振られている時にはペースも落とさなければならない。頭の中にコース図が浮かぶ。24番で1本振動ということは裏のストレートの中間、ストレートが上りにさしかかるところにある23番で黄旗の静止がでる可能性がある。するとそこから130Rまで追越し禁止になる。次の周に確認する。出ていない。追越し禁止は立体交差の先にある24番からだ。ヨシ。できるかどうか、最終ラップに勝負してみよう!
それまでのように3台の後ろでスプーンを立ち上がりスリップストリームに入る。前のクルマに近づく。微妙に操作し、ついていける範囲でスロットルをできるだけ緩める。立体交差はまだずっと先。横には出ない。前の3台が130Rに対してアウト側にラインを変える。わずかにステアリングを左に動かしながらスロットルを床まで踏み込む。130Rに吸い寄せられるように1台、2台を抜いて立体交差。最後の1台のイン側に並んだところで24番ポスト。黄旗区間。抜き返されることはない。『これは権利だからね』と意図的にペースを落とす自分を正当化しつつ、いつもより遅い速度で130Rのインにつく。当然後ろには抜いた3台が連なる。事故現場を過ぎる瞬間にスロットルをベタ踏み。後続も加速をしているのがルームミラーで確認できるものの、スリップストリームを使うには130Rで速度を落としすぎたのか、間隔が空いている。そのまま全開で最終コーナーに飛び込み3台の前でチェッカー。
※以前はJAFのサイトのこの頁にシビックレースの結果も掲載されていて自慢できたのだが、モータースポーツサイトのリニュアルで掲載対象が全日本選手権とそれに準じるレース、インターナショナルシリーズ等の一部のみになったため現在はお見せすることができないのが残念。
コースオフィシャルをやるようになってからレース関係のいろいろな情報に接することになり、モータースポーツ関係の仕事に携わることも増えてきた。70年代、唯一メーカー系でないJAF公認クラブだったレーシングクォータリークラブ(RQC)の最後の事務局長を務めた(RQCはその後VICICと名前を変えて活動)。日本オフロードレース協会の事務局も預かった。日本テレビの木曜スペシャルの企画もやった。筑波サーキットでプロのレーシングドライバーと本職のドライバーに3軸のダンプトラックでレースをしてもらったこともある。本職のドライバーが桑島さん、津々見さんより速かったのには驚いた。
アメリカに渡った目的の中には自動車レースにへの参加もあったけれど、レースデビューを日本でするとは正直思ってはいなかった。そのアメリカでは1982年11月にリバーサイド6時間レースでレース活動を開始。1987年にレース活動を中止するまでに走ったサーキットはリバーサイドインターナショナルレースウエイ(CA)、ウィロースプリングスレースウエイ(CA)、カールスバッドレースウエイ(CA)、ホルタビルレースウエイ(CA)、ラグナセカレースウエイ(CA)、シアーズポイントレースウエイ(CA)、フェニックスインターナショナルレースウエイ(AZ)、ポートランドレースウエイ(OR)、ロードアトランタレースウエイ(GA)。アメリカのサーキットも80年代後半になると安全面とか興行面から、どちらかと言うと危なくないストップアンドゴー的なレイアウトに変貌をとげた。だから、そうなる前のドライバーに挑むようなオリジナルコースを走れたのは幸せだった。
アメリカのサーキットには日本のように時間単位で走れるスポーツ走行なる走行時間帯はない。レース以外に走ろうと思えば貸切る以外に方法はない。なので初めてのサーキットはレースウィークで初めて走ることになるのだけど、そこでもコースオフィシャル時代の経験が役に立った。
SCCAのクラブレースは当時、ツーデーレースで土曜が練習と予選で日曜がウォームアップと決勝という流れだった。練習、予選とも確か30分が割り振られていたと記憶するけど、初めてのコースでもタイヤを温存したかったから最大5周しかしなかった。その代わりコースのあちこちに行って人の走りを見ることにしていた。サーキット攻略のセオリーは長い直線に続くコーナーの立ち上がり速度を上げることと高速コーナーを速く走ること。コース図を見てカギとなるコーナーで他人の走りを目に焼き付けた。スロットルを開けるのが早くても立ち上がり速度は速くない例。突っ込み過ぎてブレーキングでタイヤがロックしてラインから外れる例。注意深く見ていると、どこでどうすべきかのイメージを作ることができた。セダンクラスだけでなくフォーミュラカーでもレーシングカーのクラスでも運転手が何をしているかを想像しながら見ていると大いに参考になった。
GT5スターレットは6Jのホイールに9.5インチのスリックタイヤを履いていた。当時で1本100ドルちょっとだったと記憶する。タイヤサービスをしていたファイアストーンのジョーは2レースでの交換を勧めていたけど、我がチームの予算では4レース使わざるを得ない状況だった。だから、もちろんタイヤをこじることはご法度。コースインしてもタイヤを温めるためのウィービングはしなかった。アウトラップでは長い加速と長い減速を繰り返しタイヤが温まってくれるのを期待していた。コントロールラインを通過したら1周目より2周目、2周目より3周目が速くなるように走った。ペースを上げる時にはブレーキングポイントを遅らせるのではなく、むしろ気持ちブレーキをかける位置を手前に持ってきてブレーキの量を少なく、ターンインの速度を上げることを目指した。他人の走りを見ていてタイムを稼ごうとブレーキを遅らせる>強いブレーキをかける>アンダーステアが出る=失速、という例をいやというほど見せつけられていたし、なによりも1度速度を落とすと回復するのが簡単ではないことをコースオフィシャル時代に見抜いていたから。
ローリングスタートからグリーンフラッグになっても、毎周ラップタイムを少しでも更新できるように走った。ライバルの後ろにつくことができても最終ラップの1周前までは抜かなかった。リバーサイドのダブルエッセスやウィロースプリングスの5速全開のターン8ではスリップストリームが強烈に効くから追い抜くことはできたが、スロットルを戻してその時を待った。抜いた後は1周だけタイヤライフを無視して走った。ライバルはあっけにとられていたと思う。
ジョーは使うのを反対したけど、カーカスが出たタイヤでレースに勝ったこともあった。とにかく接地面の形が変わらないような運転を心がけていた。ウィロースプリングスで急な雨に降られ他のドライバーがレインタイヤに履き替える中、ジョーに借りたグルービングアイアンでスリックタイヤに泣く泣く溝を掘り、そのタイヤで勝ったこともあった。そのスリックはそこで寿命となってしまったけれど。
振り返ればあれだけ少ない予算でよくやったと思う。逆に予算が少なかったのが良かったとも思う。足りない分は自分でなんとかしてやろうという意識が非常に強かった。
スクールでモータースポーツは世界中で最も不公平なスポーツだと話す。ハード(クルマ、タイヤ等など)にしろソフト(練習、シュミレーション等など)にしろお金がかかる。だから基本的には予算の多寡で序列ができる。モータースポーツの楽しみ方は、相応の序列の中で自分の知恵なり工夫で次の段階に上がる努力をする過程にあり、上がれるかどうかよりも努力を続けられるかどうかにあると信じてきた。
スポーツドライビングもそうだ。やみくもに速さを追いかける必要はないと話す。それよりも、その時点での速さをいかに楽に、いかにクルマに負担をかけないで実現できるかに発想を転換し知識を総動員して工夫すれば、その時に初めて次の速さが見えてくると思っている。
工夫には自分の中に蓄積されているものを活用する。蓄積されているモノが多ければそれだけ引き出しも増える。蓄積されているモノを充実させるためにはいろいろなものを取り込まなければならない。取り込んだモノの質を高めるためには、有用なモノとそうでないモノを見分ける目が大切だ。自分の場合はコースオフィシャルをしていた時期にモノを見る目を養えたのが幸いだった。だから、ある意味で運転は五感を使った情報収集作業でもあるとも話す。
【鈴鹿サーキットオリジナルレイアウト】 1981年全日本F2選手権第4戦鈴鹿のサポートイベントとして開催されたシビックレースに参加した津々見選手の車載映像。鈴鹿サーキットのオリジナルレイアウトがわかる。上の変更点の記述を参考に冒頭の映像と見比べてみてはいかがだろう。
自分の経験を伝えたいと思ってユイレーシングスクールを始めた。そして自分の経験の土台になった鈴鹿サーキットだから、クルマ好き運転好きの人には1度は鈴鹿サーキットを走って類まれなロードコースのなんたるかを知り、経験として蓄積してほしいと思うからYRS鈴鹿サーキットドライビングスクールを続けている。