トム ヨシダブログ


第46回 ルノー・スポール スピダー

ユイレーシングスクールのスタッフの森田さんが新しいおもちゃを買った。乗ってみたかったので、無理を言って雨の中をYRSオーバルスクールに来てもらった。ホントはドライコンディションで乗りたかった、と言うと申し訳ないのだけれども、それでもルノー・スポールが市販したレーシングカーライクのスピダーの実力を垣間見ることはできた。森田さんに感謝。

トゥインゴGTと色使いが似てるかな

川が流れる路面を泳ぐ

広いトレッドは安定感抜群

車重が軽いからか姿勢変化はごくわずか

それでいてフロントタイヤのグリップを感じることができる

前後トレッドの和をホイールベースで割るとスピダーが1.3でトゥインゴGTが1.19

90キロプラスなのにディフューザーが効いているのが見える


リアビューはとてもグラマラス

とても市販車とは思えないポーズ

フロントのスペースフレームに落とし込むラッゲージパンを外した図


アルミ押し出し材のスペースフレームの奥に水平に配置されたコイルユニットが見える


アフターマーケット品なのかタコ足が魅力的なエンジンベイ。左右にプッシュロッド入力を受けるコイルユニットとドライバーが背中に背負うであろうラジエターが見える


4輪ダブルウィッシュボーン式サスペンションなのだがリアのそれはトレーリングアームに近い作動をする


ステアリングホイールはノンスタンダードだけどメーターは旧トゥインゴのそれ


FFのトゥインゴGTとミッドシップのスピダー


フランス車大好きの森田さんと

おしまい


第45回 YRS鈴鹿ドライビングスクール

11月5日。ユイレーシングスクールは初めて大きなサーキットでドライビングスクールを開催する。場所は鈴鹿サーキット国際レーシングコース。と言っても、今回使用するのは裏のストレートの中ほどにあるピットを使用する西コースを使う。

西コースのパドックでトゥインゴGT

クルマの運転をものにするためには反復練習が重要だ。確かにフルコースを走ればそれなりに楽しいことは間違いないのだが、1周6キロ近いコースを走るのでは限られた時間で全てのコーナーを繰り返し走ることがかなわない。そこで、今回は130R、デグナーコーナー、ヘアピン、スプーンカーブを集中的に練習するために西コースに限定した。
それでも、どんなクルマも最高速を経験できるであろう長いストレートや、トップギアからのコーナリングが求められる130R。複合コーナーの途中でシフトダウンしなければならないスプーンカーブなど、大きなサーキットならではの高速走行は体験できる。走行時間も1時間のインターバルを挟んで2時間もあるから、西コースのコーナーに関してはそれなりに納得がいくまでトライができるはずだ。

より高速コーナーの多い西コースをマスターしたら、次はリズムが大切な東コースでの開催を予定している。それぞれの経験を踏まえた上で鈴鹿サーキット国際レーシングコースのフルコースを走ろうというのがユイレーシングスクールが考える上達への道だ。

“高速サーキットを走る時の注意点”や“高速コーナーの攻め方”などのマニュアル、西コースコース図などの資料も既に完成しつつある。ルノー・トゥインゴGTで西コースを走った時の動画も公開した。当日の座学も含めて大きなサーキットを思いっきり走ってもらう準備をして、その上で、、ユイレーシングスクールの目標は初めての大きなサーキットでのドライビングスクールを1台のスピンもコースアウトもなく終えることにある。

■ 鈴鹿サーキット西コース


第44回 鈴鹿サーキット50周年

1962年9月に完成した鈴鹿サーキットが50回目の誕生日を迎えた。2輪、4輪合わせて日本のモータースポーツは鈴鹿サーキットとともに成長したと言っても過言ではない。
ボクも発起人の末席を汚す“日本のモータースポーツを創ってきた人達の集い”も、育ててもらった鈴鹿サーキットのお祝いをするために50周年アニバーサリーデーの期間中に祝賀会を開いたので、トゥインゴGTで駆けつけた。

残暑厳しい9月。パドックにたたずむトゥインゴGT

当日集まったのはドライバー、ライダー、コンストラクター、メディア、オフィシャルなど総勢300名余り。既に現役を退かれた方も現役を貫いている方も、懐かしい顔がひとつの屋根の下に集まった。ホントにしばらくぶりに会った人も、昔の話になると笑顔、笑顔、笑顔。

日本のモータースポーツを創ってきた人達の集い

50年という年月は決して短くはない

「こんなことがあった」、「あんなこともあった」。どの顔にも、頭の中では次から次へととんでもない量の思いが巡っているの見てとれた。言葉にできるのは、もどかしいほどにそのほんの一部でしかないのだけれど。穏やかな空気があふれていた。

ボクは1979年に日本を脱出してしまったので欠席日数は多いものの、いつも意識は日本のモータースポーツとともにあった。30年余りアメリカで経験した合理的な思想は、今ユイレーシングスクールに息づいているはずだ。

1963年第1回日本GPに参加した大久保力さんが開会を宣言

日本のモータースポーツも技術力では世界に伍するまで発展を続けて来たものの、その道は決して平坦ではなかった。タイヤが2本であれ4本であれ、人を乗せて走る機械をより速く走らせることに目を輝かせた人達が悩みながら日本のレース界と一緒に大きくなった。

祝賀会の記念品その1

※50周年を記念して作られた本の中には自分のあの頃の情景がまざまざと

祝賀会の記念品その2

※当日のクレデンシャルは向こう1年間、日本GPと8耐を除く全レースに有効なフリーパスを兼ねていた

1963年第1回日本GPに参加されたおふたかたと

※写真中央の津々見友彦さんはDKV900で、写真右の西園寺公作さんはルノー4CVでC3クラスに参加された。津々見さんはジャーナリストの先輩でもあり、ボクがアメリカに住むことになったきっかけを作ってくれたひとり。初めてお話させていただいた西園寺さんは、なんと第1回日本GPの前にも公道を使ったレースに参加されていた。驚き。

見るだけで胸が高鳴ったクルマ達の1

見るだけで胸が高鳴ったクルマ達の2

見るだけで胸が高鳴ったクルマ達の3

見るだけで胸が高鳴ったクルマ達の4

2日間の鈴鹿サーキット50周年アニバーサリーデーに集まった観衆は6万2千人余り。これからも鈴鹿サーキットは多くの人々を魅了するだろうし、またより多くの人にモータースポーツの魅力に触れてほしいと思った一日だった。