トム ヨシダブログ


第869回 交通統計

公益財団法人 交通事故総合分析センターが毎年発行する交通統計の令和6年版を取り寄せてみた。 過去のブログ(第741回) でも触れたように、全国の警察から警察庁に集められた交通事故のデータがもれなく統計として整理され掲載されている。昭和45年(1970年)に始まったこの統計、最も新しい数字は令和6年度のもの。ひも解けば日本の交通事故の全てがわかるほどの情報が詰まっている。

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ユイレーシングスクールが独自に行っているデータ化はまだ先になりそうなので、最新の交通統計から読み取れる事実を抜き出してみたい。

・この年、我が国の自動車保有台数は二輪車から大型特殊車まで公道を走行できる全ての車両を含めると91,514,410台。ちなみ過去最も台数が多かったのは前年、令和5年の91,567,693台だった。
・この年、公道を走行できるあらゆる種類の運転免許証を保有する人の数は81,742,303人。日本の人口は1億2千3百人あまりだった。免許証保有者が最多だったのは2018年で82,314,924人。
・この年、全国で発生したあらゆる交通事故の総件数は290,895件。過去最も交通事故が発生した2004年の952,720件をピークに増減を繰り返しながら減少傾向にある。ちなみに令和5年の総発生件数は307,930件。
・交通統計では交通事故を、人対車両、車両相互、車両単独の3種類に分けて集計している。このうちユイレーシングスクールが注目するのは、相手のいないいわゆる独り相撲での事故。この年の車両単独事故総件数は12,090件。前年の12,459件よりは減少しているし、過去避けようと思えば、あるいは避ける技術があれば起きなかった車両単独事故が最も多かった2001年の53,444件よりは大幅に減少している。
・この年、死亡事故に至った交通事故件数は2,598件。前年の2,618件より減少しているし、また過去最多の10,892件の死亡事故が起きてしまった1992年よりは大幅に減っている。
・この年、しつこいようだが相手がいないのにも関わらず事故が起きた件数が734件。時世を反映しているのか前年の720件より増えている。もっとも死亡事故が最多だった1992年は単独死亡事故も2,803件だったことを考えれば、自動車技術の進歩、道路環境の整備、交通社会の合理化などが奏功した結果だと考えることもできる。
・免許保有者が8千万人以上という数字に対する交通事故の件数自体はごくわずかなものだし、そもそも全ての免許証保有者が運転しているとは限らない。運転免許証保有者が一生の間に交通事故にあう確率は限りなくゼロに近いのかも知れない。
・しかしクルマを運転している以上事故に合わないという保証がないのも事実。
・そこで気になるのが、交通事故総件数に占める単独事故件数の割り合い、そして死亡事故総件数のうちの単独死亡事故件数だ。
・令和6年には全ての交通事故件数に占める単独交通事故件数の割合が4.2%だった。令和5年は4.0%だった。交通事故件数が最も多かった平成16年で5.6%。比率が最も高かったのは統計が始まった昭和45年で7.3%だから、人対車両、車両相互の事故件数にすれば少数派だ。
・ところが死亡事故に限ると話が変わってくる。死亡事故総件数に占める単独交通事故件数は令和6年が28.3%、令和5年が27.5%だった。
・強引に結論を導き出すつもりはないけれど、単独事故は交通事故全体の4%でしかないのに、死亡事故に限ると数字が跳ね上がる。
・100件の交通事故が起きたとして、そのうちの単独事故は4件でしかない。しかし単独事故が起きると10件のうちの3件近くが死亡事故に至ることを数字が示している、という話だ。ちなみにユイレーシングスクールが集計した数字によると令和2年の29.63%が最多記録になる。
・交通事故の件数など免許人口からすれば無視できる数字だ、と言う向きがあるかも知れない。自分は交通事故とは無関係と思っている人がいるかも知れない。
・何もなければそれに越したことはない。しかしここに上げた数字が示すように、交通事故と交通死亡事故が起きる確率はゼロではない。交通環境が進化しても人間の落ち度をカバーすることは難しい場合がある。クルマの安全性能が向上しても、それで人間が傷つくことはないという保証はない。
・何よりも好きなクルマで事故を起こしてほしくない。油断をせずにクルマの運転が上手くなる努力を続けてほしい。ユイレーシングスクールはそう思いながらドライビングスクールを続けている。

※ 交通事故総合分析センターのサイトから1年落ちの「交通統計」(2023年以前の歴年)を無料でダウンロードできます。交通事故がいつ、どんなところで、どのように起きるか。交通事故にまつわる数字がこれでもかと並んでいます。興味のある方は覗いてみてはいかがですか。


第868回 YRSドライビングワークショップFSW

8月のとんでもなく暑い日。富士スピードウエイの広大な駐車場でYRSドライビングワークショップFSWを開催。
午前中にスラロームと大小のブレーキング練習、午後はコーンで作ったオーバルコースでコーナリングの練習をします。クルマの機能は加速、減速、旋回。人間が行う操作がスロットル、ブレーキ、ステアリング。それぞれの関係を確認しながら、クルマを思い通りに動かす練習をします。

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ユイレーシングスクールが主催する全てのドライビングスクールは朝一番の座学から始めります。クルマの動き方をわかりやすく解説。クルマを動かすための操作を合理的に説明します。

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座学の後は教室で説明した操作をするとクルマがどう動くかみてもらうためにデモランを行います。運転にはやってはならない操作とやった方がいい操作、それにやるべき操作があります。操作の違いを見分けることで理論と実践のギャップが縮まります。

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今回唯一のルノー乗りのEさんがビッグブレーキに挑戦します。100キロプラスからできるだけ短い距離でクルマを静止させる練習。ブレーキペダルの踏み方で制動距離が大幅に異なることを体験します。

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Eさんが20m間隔においたコーンのスラロームコースを駆け抜けます。クルマは連続した切り返しが苦手です。切り返しを連続するのではなく一瞬がフラットな状態をはさんでやることでクルマが走りやすい状況を作ります。

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EさんとメガーヌRSトロフィー(MT)。Eさんは今年初めての参加。昨年は5回、一昨年とその前は1回参加してくれた。
Eさんの感想文が載っている過去の記事は、 ・第803回 Eさんの場合(2024/8/1) ・第666回 Eさんの場合(2022/7/21)です。

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ルーテシア3RSのオーナーでもあるGさん(写真右)は2018年5月のYRSオーバルスクールFSWにロードスターに乗って初めて来てくれた。2019年は3回、2020年は1回走りに来てくれていたのだけど、2021年5月のYRSオーバルスクールFSWにルーテシア3RSで参加してくれた。2022年はルーテシア3RSで1回、2022年は5月にルーテシア3RSで走っていたと思ったら9月にはロードスターで現れた。今回は新調したと言う赤いロードスターで、同じ赤いロードスターに乗る弟さんを誘って参加してくれた。
Gさん兄に登場してもらった過去のブログは、 ・第726回 ルノー仲間再来(2023/5/23) ・第681回 YRSオーバルスクールFSWとルノー仲間(2022/10/4) ・第576回 仲間がもう一人(2021/5/13) です。

 

次回のユイレーシングスクールは11月1、2日(土日)開催のYRSツーデースクールFSW。今年最後の一般応募のドライビングスクールです。運転の達人を目指している方はぜひ参加してみて下さい。詳しくは YRSツーデースクールFSW開催案内 をご覧下さい。



第867回 記憶のかなたの8

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遠い昔の思い出7から続く

 

池沼選手が2TGエンジンを積んだチューブフレームのバギーで挑戦したBAJAインターナショナルレースは無事に終わった。
池沼選手は事務局を担当していた日本オフロードレース協会が1976年に SCORE (Southern California Offroad Racing Enterprises:現存)に派遣したものだけど、日本人ドライバーが海外のオフロードレースに挑戦した最初の例になる。

サンディエゴからさらに南下し国境を越えてメキシコ領ティワナへ。ティワナからさらにクルマで南に1時間。バハカリフォルニア西岸、太平洋に面した港町エンセナダがスタート地点。カラフルな街並みに続々とオフロードマシンが集まってくる。カブト虫と呼ばれる空冷エンジンのVWを改造したBAJA BUG。Tubeと呼ばれるパイプスペースフレームにVW空冷エンジンを搭載したバギー。全てと言っていいほどVWの空冷OHV水平対向エンジンを積んでいた。当時は改造パーツが豊富でメンテナンスも容易だった。だから車検場ではダブルオーバーヘッドカムの水冷4気筒エンジンは注目の的だった。

確か2輪を含め300台近いエントリーがあったと記憶する。クラス毎に分かれた参加者が1分間隔でエンセナダの市街地を駆け抜ける。

BAJA500と呼ばれていたこともあったようだけど、1976年はBAJA Internationalとしてカリフォルニア半島を横断してカリフォルニア湾に面した港町サンフェリペで折り返しエンセナダに戻る420マイル=670Kmのレースだった。

レース参加者は砂漠の中を走るのだが、たまにバハカリフォルニアを縦断する国道1号線の近くをコースが通っていたり横切ったりする。そのあたりにサポート部隊が設営していた。ボクもマシンの近くに寄れる場所を探して写真を撮った。コダックのKRの時代。
ところどころに民家が建っていた。人づてに家畜の糞をブロックにして積み上げたものだと知った。オフロードカーのジャンピングスポットには大勢の地元の人が集まっていた、どこから来たのかは見当がつかなかった。

LAに戻ると日本を発つ前に手配していたトヨタとマツダの広報車を試乗した。日本にはない2.6リッター直6を積んだスープラXXは確かに加速はよかったけど、フリーウエイの鋲を踏んだ時のショックとノイズが大きかった。バネ下が暴れているよだった。マツダのGLC(日本名ファミリア)も同じだった。ロードノイズも大きかった。路面がアスファルトではなくコンクリートなのが原因かなと思った。

余談になるけど、アメリカのフリーウエイの車線を分けるのは白線ではなく、一定の間隔で置かれた高さ5センチはゆうにあろうかという鋲。速度が高いから避けるまでもなく踏む確率は高く、それなりのショックとノイズがあるから車線を変更したとの自覚が生まれる。しかも鋲に埋め込まれたキャッツアイ=反射板は白色なのだけど、何車線あろうと最も右に並ぶ鋲、すまわち路肩に最も近い鋲に埋め込まれたキャッツアイ=反射板は黄色なのでその右側が路肩だとわかる。だから街路灯もない真っ暗なインターステイツをヘッドライトだけを頼りに走る時でもそれほどの不安はない。
最初にアメリカで鋲を踏んだ時には邪魔だなと思ったものだけど、近ごろ新名神から伊勢湾岸に乗る時の大きなダブルS字の白線が消えていて夜間にどの車線を走っているのか覚束なかった時、日本でも車線を分けるのは鋲にしたほうがいいと確信した。そうはならないと思うけど。

LAではチャイニーズシアター前のルーズベルトホテルに泊まった。近くにアービーズというファストフードがあった。初めてローストビーフサンドイッチなるものを食べた。衝撃だった。ハンバーガーとは違う肉々しい美味しさ。アメリカにいる間、備え付けのホースラディッシュとアービーズソースをたっぷりかけて何度食べたことか。

867-1 日本に進出したと思ったアービーズが撤退してしまったのが残念

ある日ハリウッドから南に30分ほどのところにあるガーディナに行った。当時アメホン=アメリカンホンダの本拠地があった。用事をすませ夕方アスコットパークに向かった。話に聞いていたダートのオーバルコースで行われるレースを見るためだった。

昔からモータースポーツはクルマの究極的な使い方だと思っていた。運転が上手いと胸を張れるほどの自信はなかったから、はなからレーシングドライバーになるつもりはなかったけれど、モータースポーツの全てが知りたいという欲求は強かった。

中学時代から読み始めた自動車雑誌の記事から、アメリカを代表するモータースポーツはインディ500とデイトナ500だと結論付けていた。結果的にそれは間違いではなかったけど、アメリカのモータースポーツの巨大さは日本にいて知ることはとうてい無理だった。
1979年にアメリカに居を移してアメリカにどっぷり浸かった生活を始めて、初めてインディ500のルーツがアメリカのそこかしこにあるオーバルコースだと知った。

そのオーバルコースでは有名なアスコットパークスピードウエイに足を踏み入れる。プーンとなんかの匂いがする。グワッというような暴力的な音が絶え間なく聞こえてくる。行きかう観客はみな透明のカップに入ったビールを持っている。トイレがおしっこ臭い。コースを見渡せるスタンドに登る。目の前で車輪がむき出しのマシンがカウンターステアを当てっぱなしでグルグル回っている。リアタイヤはドラム缶の輪切りに見えた。

プログラムを買った。状況がわかってきた。走っていたのは400馬力ほどにチューニングしたアメリカンV8を積んだスプリントカーだった。エキゾーストパイプは直管だった。アスコットパークスピードウエイは西海岸で有名なハーフマイルトラック=1周800mのダートトラックだった。最初に鼻をついたのはスプリントカーがメタノール燃料を燃やしていたからだった。
プログラムの終わりの方にインディ500に続くピラミッドが描かれていた。いくつものカテゴリーが載っていた。スプリントカーは登竜門の1番上にあった。そしてピラミッドの底辺に4歳から始められると謳ったクォーターミヂェット=4分の1ミヂェットが載っていた。その昔、立川飛行場のオーバルコースでアメリカ人の子供が楽しそう乗っていたのに自分は乗れなかったあ・れ・がクォーターミヂェットと呼ばれていることを知った。

ようやくアメリカンモータースポーツの全体像の端っこが見え始めた。初めてのアメリカはホントにホントにゾクゾクの連続だったのを覚えている。

792-5 スプリントカーの弟分のミヂェット


第793回 遠い昔の思い出 5
(2024/6/12)
CG1994年2月号 オーバルトラックのグラスルーツ/ミヂェットカー体験試乗記

<続く>



第866回 自画自賛

遅くなってしまったけれど、日本でドライビングスクールを初めてから25年が経ったので開催数と受講者数を集計してみた。

1999年12月8日に埼玉県の桶川スポーツランドで最初のドライビングスクール、YRS桶川ドライビングワークショップを開催した。そして2024年12月8日のポルシェクラブ東京銀座ドライビングレッスンでちょうどユイレーシングスクールが25歳に。

この間、エンジンドライビングレッスンやポルシェクラブ千葉の安全運転講習会やポルシェクラブ東京銀座ドライビングレッスンを含めて延べ1,001回のスクールを開催した。FSWレーシングコースや鈴鹿サーキットレーシングコースはもちろん、北はしのいサーキットから南は阿讃サーキットまで大小とりまぜて16ヶ所のサーキットでドライビングスクールとスクールレースを開催した。浅間台スポーツランドから始まって、関越、yetiスキー場、奥伊吹スキー場、大阪舞洲、FSWP2など広大な駐車場6ヶ所でYRSオーバルスクールを開催した。

1999-2024school 25年間に開催したドライビングスクールとスクールレース

YRS桶川ドライビングワークショップを開催したことがきっかけとなって、2000年から日本オートスポーツセンター(当時)の委託を受け筑波サーキット公式ドライビングスクールを開催した。2000年はコース2000で7回、2001年からはコース1000に開催地を移し2001年は21回、2002年は23回も開催した。ユイレーシングスクールでサーキット走行に目覚めてライセンスをとってスポーツ走行を楽しんだ人も多い。サーキットを走らないまでも運転の楽しさに20年近くユイレーシングスクールに顔を出してくれている人もいる。

ユイレーシングスクール自身もモータースポーツへの窓口を設けた。できるだけ敷居の低いレースを実現したかったからライセンスはなし。ただ安全を担保するために参加資格をユイレーシングスクール卒業生に限定した。
ヨーイドンに賛同してくれた人に楽しんでもらうためにYRSスプリントは3ヒートレースとし、1日で3回のスタートとゴールを味わえるようにした。さらに強化クラッチをおごっても意味をなさないようにローリングスタートとした。YRSエンデューロはオリジナルルマン式スタートで始まる130分の時間レースとした。全開で走るとガス欠になる設定がレースの綾を作り参加者のドライビングポテンシャルを上げた。相対的な速さが求められるレースに興味をつのらせ、ロードスターパーティレースに参加してシリーズチャンピオンになった人もひとりではない。

YRSオーバルレースは日本で最も敷居の低いヨーイドンだった。YRSオーバルスクール参加者を対象に始めたのだけど、これが正解。参加した人はどんな状態になってもクルマをコントロールする技を身につけた。

こうしてクルマは好きだけど運転には興味がなかった人、走るのは好きだったけどサーキットは縁のなかった人、レースなんて特別な人がやるもので危ないと思っていた人がユイレーシングスクールの門を叩いてくれて、25年間に参加してくれた方は延べ18,678名にものぼる。

1999-2024participants 25年間に参加してくれた延べ人数

1999年の1回目からクルマを思い通りに動かす方法を理論的にかつ合理的に説明し、理論と実際の融合を目指す環境を用意してきた25年間。一度もブレずに不器用のまま続けてきた。 今年76歳。とりあえずあと5年は先頭に立って引っ張るとスタッフに宣言した。その間に、その先を担う不器用な御仁も育つと思う。



第865回 Kさんの場合

先日のYRS筑波サーキットドライビングスクールの開催2日前に電話が鳴った。「神戸のKです。あさってのスクールに参加したいのですが・・・」。

当日集合時間50分前にコース1000のゲートに着くと既にKさんが。「前泊したのですか」と聞くと、「昨夜9時に出て朝早く着きました」。いつもながらタフなKさん。  スクールが終わって「泊まって帰られるんですか」と聞くと、「このまま帰ります」。いつもだけどKさんのバイタリティに驚く。それが初めての筑波サーキットコース1000の走行にどう影響するかが見もの。

865-1 写真は2022年3月のツーデースクールで撮影

865-2 ルノー乗りが全員集合で前列左端がKさん

少々Kさんの身を案じていたのだけれど、翌日にはメールが届いて安心したので断りなしに公開します。

 

昨日は酷暑の中、本当にお世話になりました。とても有意義な時間が過ごせました。当初は「つくばかー? さすがに遠いなぁ」と申込を躊躇していたのですが、過去に菅生まで行った自分がいたので「ダメもとで早く申し込め!」との心の叫びに従いました。

結果は初見、初走行のコースで43’75と自分ではそこそこ満足のできる走りができました。(が、まだまだタイムアップへの欲がありますが・・・)
それもこれもトム先生のお陰でございます。オーバル、トライオーバル、ツーディで徹底的にトレイルブレーキングとイーブンスロットルを練習させていただいた結果だと考えております。(個人的には雨のオーバルが一番勉強になっております)

ただ、サーキットをガンガン走っていると、どうしてもタイムを詰めたいがあまり突っ込みが癖が強くでて、レイトブレーキング→強引なコーナリング→立ち上がりが遅い→タイムが出ない(タイヤが減るだけで遅い)の悪循環に陥っておりましたので、(車さんを支配しようとしてしまっていたのですね。)今回はそのリハビリの意味でも大きな収穫が得られたと思います。今年の秋以降のサーキットハイシーズンに向けた良い機会となりました。ありがとうございました。

気持ちのいい運転ができる、運転のイメージが具現化できる何度も、集中して同じポイントを練習できる。トータルで周回トライへの落とし込みとタイムでの確認。つくばレッスンは、わたしにとって、まさにベストなレッスンです。(TC1000が、こんなに良いサーキットとは思いませんでした。反省。)
また、急なお申込みをさせていただくかも知れませんが懲りずに今後ともよろしくお願い致します。

 

865-4 FSWショートコースで格上のメガーヌRSを追い回す

長くなるけれど、メールの中でKさんが勉強になったというYRSオーバルスクールFSW。タイヤが浮くぐらいの豪雨の日、アンダーステアが出ているのにスロットルを開けたがるKさんを助手席に乗せてデモランをした。「流すのなら2輪だけではなく、4輪を流せばクルマは前に進む」と説明して。

敢えてターンインから厚いトレイルブレーキング。アンダーステアが顔を出す。わざと切り足してフロントが逃げるようにしむける。
「アンダーが出たのを感じるとKさんは曲げようとしてステアリングを切り足しますよね」。うなづくKさん。

次に減速量を減らしターンインの速度を上げてごく薄いブレーキでにしてからターンイン。フロントが動いたら手を一瞬止める。リアがブレイクすると同時にステアリングを切り足すして後輪のスリップアングルを増やす。右足のイーブンスロットルと連動させてステアリングを足したり引いたり。
KさんのルーテシアRSはピッチングすることもなく、気をつけていないとそれとわからないぐらいのアンダーステアとオーバーステアを繰り返しながら、要するにホイールベースの間のどこかを軸としてプラスとマイナスの自転を繰り返しながら円運動を続ける。コーナリング速度が高いからこそなせる技。ターンインから立ち上がりの舵角ゼロまで前後輪のスリップアングルの和が等しくなるのを目指す。

Kさんは笑いながら、「これですよ、これ。これをやりたかった」。

865-3 2024年3月のYRSトライオーバルスクールFSWのKさん

Kさん、ユイレーシングスクールがお役に立てばそれほど嬉しいことはありません。また走りに来て下さい。



第864回 YRS筑波サーキットドライビングスクール

とにかく暑かった。スタッフのクルマに搭載された外気温時計が44度だもの。

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長野県から参加してくれたアルファロメオ4Cの乗るEさんとスタッフのMとKが集合写真に間に合わなかったので卒業写真よろしく左上に。

参加した23歳から70歳まで平均年齢54.4歳の青年が暑さに負けず、午前中のイーブンスロットルとトレイルブレーキングの練習に続き、奥の深いコーナーばかりの筑波サーキットコース1000で速いラップタイムを刻むべく、ひたすら走り回りました。
午後の計測ラップだけで最もたくさん走ったのはIさんとMさんの57周。操作が身体に馴染むようペースを上げ続けるようにアドバイスしたら、Sさんがものの見事に短いセッションを合計すると56周走って56周目にベストラップ。そのパターンを繰り返せばもっと速くなりますよ、Sさん。

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ユイレーシングスクールが初めての方が3名。サーキットを走ったことのない方が2名。ユイレーシングスクールのカリキュラムはどんな方でも安全にクルマを動かすコツを覚えられます。



第863回 ヨーイドンをやりませんか?

実は、一時期ユイレーシングスクールを受講した方を対象にスクールレースを開催していたことがある。

1999年に当時自動車メーカー系では見られなかったドライビングスクールを開校した目的はふたつ。ひとつはクルマに興味はあるけど動かすことにはそれほど熱意が湧かない人に運転を上手くなってもらうこと。これが『所有欲から使用欲への転換』。もうひとつは運転が好きな人にもっと運転を上手くなってもらうためにレースを体験してもらうこと。これが『絶対的な速さから相対的な速さへの転換』。

ひとつめの目的は比較的簡単に達成することができた。2000年から筑波サーキットの運営母体である財団法人日本オートスポーツセンター(当時)の委託を受けて年間20回余りのドライビングスクールを開催したから、サーキット走行なんて縁がないと思っていた人が大勢参加してくれた。ユイレーシングスクール流のカリキュラムをこなしてもらえば運転が上手くなり、サーキットもそれなりに走れるようになるのは実証済みだ。

サーキットなんか危ないとか関係ないと言っていた人がYRSドライビングスクールを通じてサーキットを走ることにはまった。ふだんでは出せないスピードで走り、公道では経験できない加速度を感じる。愛車の性能を存分に発揮してあげられる。筑波でもFSWでもユイレーシングスクールの卒業生がライセンスを取得しスポーツ走行にいそしむ光景が繰り広げられた。
それは喜ばしいことなのだけど、こんな声も聞こえてきた。「なかなかタイムが縮まらない」、「だれだれさんに負けた」、「タイヤを換えないとタイムがでないのか」等々。要するにサーキットを走るなら速くなければならないという思い込みが底辺にあった。

しかし何度も言うけど、スポーツドライビングを含むモータースポーツは世界でもっとも不公平なスポーツだ。乱暴な言い方だけど、銭このある人にはかなわない。クルマの改造がその典型。とにかく費用をかければ優位に立てる。しかしそれは、絶対的な速さを追いかけているだけで、必ずしも運転手が速くなることとイコールではないのも事実。

そこで運転を教えている立場上、クルマの速さではなく、運転手の上手さと頭脳が速さの決め手になる場を用意することにした。ヨーイドンで競争して誰の運転が速いか決めようというわけだ。しかもクルマの速さだけでは勝てない工夫を織り込んだ。ただモータースポーツには危険が伴う。だから参加するにはユイレーシングスクールを受講してクルマを思い通りに動かす術を学ぶことをスクールレースの参加条件にした。

こうしてユイレーシングスクールの卒業生を口説き、最初に始めたのがYRSスプリントとYRSエンデューロ。

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FSWショートコースのゾクゾクする
YRSスプリント ロードスタークラスのスタート
ショートコースの同時出走は15台までだけど
安全を重視するユイレーシングスクールには特例が認められた

 

YRSスプリントは強化クラッチをおごる意味がないようにローリングスタートとした。スタートとゴールの興奮を何度も味わえるように予選プラス3ヒート制にした。都合4回もチェッカーフラッグを受けられた。2004年に開催したYRSスプリント筑波の結果を見てもらえばどんなレースだったか想像がつくと思う。
・2004年2月28日開催 YRSスプリント筑波 結果

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FSWショートコースの息を飲む
YRSエンデューロ のスタートシーン
オリジナルのルマン式スタートにこだわった
ドライバーがエンジンキーを持って走る

 

YRSエンデューロは不必要な競争を避けるためにピットインの時間をキッチンタイマーで制限した。ユイレーシングスクールが日本で初めて披露した。早くピット作業が終わってもコースインできないのだから慌てる必要はなかった。速いクルマが勝ってばかりじゃ面白くないし、全開で走ると勝てるのもつまらないから、130分の時間レースとして燃費を気にしながら走らないとガス欠でゴールできないようにした。2005年に開催したYRSエンデューロの結果を見てもらえばどんなレースが繰り広げられていたかがうかがえる。
・2005年7月30日 YRSエンデューロ筑波 結果

YRSスプリントもYRSエンデューロもそれなりに好評を博し、サーキットなんて縁がないと思っていた人やレースなんて危ないといぶかしがっていた人も、他人と競争することにのめり込んでくれた。ロードスターがポルシェに勝つ楽しさを覚えてくれた。ラジアルタイヤでSタイヤより速く走る技術を身につけた。まさに『絶対的な速さから相対的な速さ』への転換だった。

そして最後に始めたのがYRSオーバルレース。サーキットを借りるのはそれなりに費用がかかるから参加費も高くなる。できるだけ手軽に(決して気軽にではない)多くの人にヨーイドンをしてほしいと思っていたのだが、YRSオーバルスクール卒業生に水を向けても「グルグル回るだけでしょ」とか「危ないんじゃない」とつれない。一計を案じてYRSオーバルスクールの開催日に試験的にやってもらった。

結果は。FSWジムカーナ場にパイロンで作ったオーバルコースで8周のヒートレースをしただけで、クルマから降りた参加者は地面にへたり込んだ。走り慣れていたサーキットならそんなことはなかったのだろうが、常に周りにクルマがいて、一方方向にしか曲がらず、長い間横Gに翻弄されるオーバルレースは勝手が違った。
笑いながら言ってやった。「みなさんの運転力はそんなもんですか? 邪まなことを考えて走っていたのではないですか? もっといけると思いますけどね」。

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YRSオーバルレースFSWの原点
FSWジムカーナ場に作ったパイロンコースを
息を飲んだまま走る参加者
みんな一生懸命走っていた

 

それからというもの、広い駐車場にパイロンを並べて作ったオーバルコースでのヨーイドンがユイレーシングスクールの代名詞になった。2004年に開催したYRSオーバルレースFSWの結果を見てもらうと、いかに充実したレーシングスクールが行われていたかが想像してもらえると思う。
・2004年6月13日 YRSオーバルレースFSW結果

と言う訳で、 来年YRSオーバルスクールを受講した人を対象にYRSオーバルレースFSWを再開します。いずれかのYRSオーバルスクールを経験された方はぜひ参加して下さい。運転操作が一皮もふたかわもむけること請け合いです。

 

次のふたつの動画はYRSオーバルレースFSWのシーン。初めて参加する人はここまでの接戦は難しいだろうから、並走の練習をしたり追い越しの練習をしたり、とにかく無意識に走れるようにアドバイスをします。YRSオーバルレースFSWを開催するコースは幅が14mもあります。高速道路の3車線より幅広です。大井松田からの下りをヒラリヒラリと走るのと同じです。

ユイレーシングスクールを受講してくれた方々が、大の大人が一生懸命になって走るのが好きです。過去にYRSオーバルスクールを受講された方、来年開催するYRSオーバルスクールFSWを受ける予定の方は、ぜひヨーイドンを味わうことを想像してみて下さい。



第862回 ユイレーシングスクールが考える道具とクルマ

クルマ1
クルマはますます大きくなり続け
どんどん豪華になり速くなり
おせっかいを焼きたがるようになった
 
しかしクルマはいつの時代も人間の良き相棒だ
相棒だから一生懸命付き合わなければならないと思う

 

ユイレーシングスクールの主宰者として、個人的にはクルマはかけがえのない相棒だと思っている。何よりも高校1年の春に軽免許をとって全長3m、排気量360ccの自動車を公道で運転した時だった。間違いなく世界が変わったことを気づかされ、さらにクルマは人間に自由と時間を与えてくれる『人間能力拡大器』だ、一生付き合っていくべき対象なんだと確信した。

クルマ2

 

以来60年。クルマを相棒として尊敬の念を抱き、相棒とどうやってうまく付き合うかを考え続け、サーキットを走ればまだまだ速くなり、76歳になっても運転を楽しんでいる自分に気づき、改めてクルマの存在をいとおしく思っている。
だから、もっともっとクルマを上手に動かしてあげたい、クルマの性能をキッチリと使ってあげたいという思いが強い。
だから、ユイレーシングスクールに来る人達にももっとクルマを好きになってほしいと思う。
だから、クルマさんと付き合ううえで大切なことを話しておきたいと思っています。

クルマ3

 

世の中には様々な道具がある。包丁のような単純な道具から、高度で複雑な技術で作られたクルマまで、基本的に人間の営みを豊かにするために道具は生まれてきた。ただ、どんな道具にも使い方がある。使い方を間違えれば道具はその機能を発揮することができないばかりか、人間に牙をむくことさえある。

みなさんは包丁でモノを切る時に引いてきりますよね。なぜ引いて切るほうがよく切れるか想像したことがありますか。
刃物の刃は薄いほうがよく切れるのは広く知られています。しかし包丁の耐久性を考えるとある程度の刃の厚さは必要です。そこで薄くはない刃のついた包丁を引くことで、『人為的に』包丁の刃の厚さを薄くしているのです。包丁の刃の厚みが薄くなるわけがないと思う方は、2011年1月にアップした ルノー・ジャポンの公式ブログ「第6回 道具を使う」 を読んでみて下さい。

クルマ4

 

みなさんは小学校の手洗い場に並んでいる蛇口から水が滴り落ちているのを見たことはありませんか。おおかたは水が落ちてないのに、中には滴り落ちている蛇口がある。そんな光景です。
たくさんの子供が開け閉めする蛇口ですが、子供が蛇口の使い方を知るよしもありません。今はカートリッジタイプの蛇口が増えたので水漏れは少なくなりましたが、パッキンを使っている蛇口は漏水と背中合わせです。ではどうすればパッキン式の蛇口を長持ちさせることができるのでしょうか。これも道具の使い方の一つです。
水を止めるために蛇口を思いっきり閉めるのは間違いです。いったん蛇口を閉めて水を止めるのはかまわないのですが、その時に力が入りすぎてパッキンを必要以上につぶしている可能性があります。パッキンはつぶれることを繰り返しているうちに厚みがなくなり水を完全に止めることができなくなり、結果として水が滴り落ちることになります。正解は、いったん水が止まったら水が蛇口から漏れる寸前までハンドルを戻す、ことです。

意識してハンドルを戻そうとすると手間はかかるかも知れません。ですが、パッキンがつぶれないように閉めるのが正解だと理解していれば、そのうちに必要以上の力で閉めることはしなくなります。

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クルマも運転も同じです。道具としての包丁や蛇口とクルマには大きな開きがありますが、使い方を間違わなければきちんと機能してくれる道具です。ユイレーシングスクールは道具の使い方としての操作を理論的かつ合理的に理解してもらい、それらをたたき台に反復練習できる機会を設けています。全ては道具としての相棒であるクルマさんに気持ち良く走ってもらうためです。

みなさんもぜひユイレーシングスクールに遊びに来て下さい。真剣に遊ぶ方法をお教えします。



第861回 ブレーキペダルの踏み方

なかなか減らないどころか、増えそうな勢いのペダルの踏み間違いによる事故。最近驚くのは踏み間違いをするのが、いわゆる後期高齢者とは限らないこと。何が起きているのか。運転という行為が軽んじられる風潮がなければいいと思うのだけど。
そこで、2019年8月10日にブレーキペダルの踏み方について、提言というわけではないけれど、以前ユイレーシングスクールのサイト内にあるYRS PAGESに書き込んだものを改めて転載したいと思います。

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先日来、ルノー・ジャパンのブログで「ブレーキペダルとかかと」というテーマで数回アップしました。スロットルペダルとブレーキペダルの踏み間違いによる事故が続発していたのを受け、ユイレーシングスクールで教えているように、かかとをつけたままペダルを踏みかえれば防止できるのではと提案したのがきっかけです。

最初に第385回 右足の動かし方 について提案。

それを読んだ卒業生とスタッフ数名から、「教習所ではかかとを浮かせてブレーキペダルを踏め」と教えていますよとの情報。 ボクは軽免許も普通免許も教習所には行ってないので何を教えているかも知らない。だから『 エッ ! 』 だった。
それで、いくらなんでもそれはおかしいだろと、 第398回 衝撃の事実 をアップ。
でも待てよ、ひょっとするとかかとを浮かすのに肯定派の人もいるかもわからないから意見を聞かせてほしいとこのブログで呼びかけた。

すると数名のYRS卒業生からメールが届いたので、
Aさんからのメールは、 第400回 ブレーキペダルとかかと 1 で。
Mさんからのメールは、 第401回 ブレーキペダルとかかと 2 で。
Fさんからのメールは、 第402回 ブレーキペダルとかかと 3 で紹介。3名ともYRS卒業生だとは言え、全員かかとをつけたままの踏み換えに賛成。

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すると今度はスタッフのYから、「かかとをつけてペダルを踏み換えることを勧めているサイトがありますよ」との情報。URLを送ってもらったら、あのGAZOOのサイトの中にあるドライビングスクールの頁にイラストつきで 『ペダルの踏み換え方』 の説明があった。

ことの顛末は 第407回 ブレーキペダルとかかと にまとめてあるけど、ユイレーシングスクールは1999年に日本で開校してから一貫して、ジムラッセルレーシングスクールがそうであったように『 かかとを同じ位置に固定したままスロットルペダルとブレーキペダルを踏み換える 』ようにアドバイスしてきた。
かかとを固定するのはペダルの踏み換えを的確にするだけでなく、かかとを支点につま先を動かすことで繊細なペダル操作を可能にする。両足のかかとを支点にすれば上半身の安定にもつながるから、ユイレーシングスクールとしては公安委員会指定の教習所ではかかとを浮かせてブレーキペダルを踏むことを教えているとしても、かかとを固定することを強く勧めている。

GAZOOのサイトの方針でリンクはホームページに貼るように指定されているけど、トヨタのお客様相談室に主旨をお伝えして特別にユイレーシングスクールのサイトで当該頁を直接紹介する許可をいただきました。ぜひクルマ情報サイトGAZOOの、クルマの運転の基本 ~上手なアクセルとブレーキ操作(オートマ編)~ の頁をめくってみて下さい。そしてどうするのがペダルの踏み間違いを防ぐのか、今一度思い巡らせてもらえればと思います。そして、かかとを浮かしてペダルを踏み換えている人が近くにいたら、こんな方法もあるんだよ、と伝えてもらえればとも思います。

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さて。一度染みついた運転操作を変えることは難しいかも知れない。それでも、これだけニュースになっているのだから踏み間違いが現実に起こり得るということは想像できるはずだ。クルマは便利な道具であるけれど白物家電とは違う。自分が移動しているのだから状況は刻一刻と変わる。油断して運転するのはやめたほうがいい。踏み間違いに限らず、間違った操作をしないための工夫を怠らないほうがいい。

世間一般に『自分は大丈夫だ』と思っている人が多いからなのか、踏み間違いにいたらないにしても、それ以前にサンダルやつっかけのようなかかとのない履物で運転している人が多いのに驚く。経験上、運転はなめないほうがいいと思う。



第860回 記憶のかなたの7

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第832回 記憶のかなたの1
第833回 記憶のかなたの2
第839回 記憶のかなたの3
第846回 記憶のかなたの4
第857回 記憶のかなたの5
第858回 記憶のかなたの6 からの続きです

 

渋谷にあるレーシングクォータリーに着くと、シャッターが開いたそれほど大きくないガレージの中にフォーミュラカーのシャーシらしきものがおいてあった。そばでひとり黙々と手を動かしていたのがまぎれもない解良さんだった。何年ぶりだろう。

恐る恐る声をかけた。『あの~、昔原町で模型飛行機を一緒に飛ばしたことのある吉田ですが… 』。

チラとこちらを見た解良さん。ほどなくして思いがけない言葉が返ってきた。『吉田君じゃないか』。昔と同じゆっくりとした温和な話し方。10数年ほど前のことを解良さんは覚えていてくれた。思わず涙が出そうになったことを覚えている。

手を動かし続けていた解良さんが何かを探すそぶりをした。直感的にトーミリのスパナだと思った。手に取って差し出す、解良さんが『気が利くじゃない』と。ここまではかろうじてイメージが残っているものの、実際何を話したかは覚えていない。だが、解良さんが紹介してくれたおかげでレーシングクォータリークラブ(RQC)の事務局に潜り込むことができた。

クルマが好きなのは間違いなかった。ただ、どこへ行けばいいのかわからなかったけど解良さんを通してモータースポーツという道が目の前に開き始めた。このまま進むのがいいと直感した。

当時JAF公認クラブの中で唯一自動車メーカー系ではないRQCはオートスポーツ誌とタイアップして富士スピードウエイや筑波サーキットでレースを主催するかたわら、三栄書房と組んで東京レーシングカーショウも開催していた。解良さんはRQCが主催していたミニカーチャンピオンシップレースに出場させる軽自動車のエンジンを搭載したフォーミュラカーを作っていた。RQCでは実にいろいろなことを経験させてもらった。レースの主催、ライセンス講習会の開催、メカニック(の見習い)。ただのクルマ好きでは得られないような視点を身につけることができた。

RQCの事務局はいろいろと面白かった記憶がある。富士スピードウエイのレースでコースオフィシャルにお弁当を配りに行き有名な30度バンクが歩いては登りにくいほど急だったのを知った。筑波サーキットで開催するレースの宣伝にポスターを抱えて渋谷から電車を乗り継ぎ関東鉄道の宗道駅近辺に貼りに行った。初めて単線の鉄道を経験した。

その後、RQCは政治的な理由で身売りしたものだから、前々から誘われていた雑誌の世界に目を向けた。

レースレポートを書いてみないかと誘われてドライバー誌に記事を書くようになった。後に八重洲出版の嘱託になり企画を出したり「トムヨシダのレッツカート」という連載を2年続けた。星野一義さんにも連載してもらった。競合しない婦人画報社のメンズクラブ、双葉社のMr.ダンディ、山海堂のオートテクニック、三栄書房のオートスポーツには執筆し続けたので、取材を通して見聞は広がっていった。『トムヨシダのレッツカート』というレーシングカート界では初めての4色刷りの単行本を双葉社から出版した。

日本オフロードレース協会の事務局でレースの開催にも携わった。日本テレビの木曜スペシャルの企画にも携わった。大須賀海岸でバギーのジャンプ大会をやったり、筑波サーキットで10輪ダンプのレースをやった。桑島さんや木倉さん達のレーシングドライバーと本職の運転手の競争だった。勝負は本職の勝ち。本職は10輪ダンプをカウンターステアで乗りこなしていた。

1976年。前年の日本オフロードレースシリーズのチャンピオンの池沼純一さんに本場のオフロードレースに挑戦してもらうことになった。メキシコ領カリフォルニア半島のバハカリフォルニア地区の420マイルで行われたSCORE BAJAインターナショナルレース。事務局兼広報として同行することになった。

72年にギアレースの取材にマカオへ。ヨーロッパでF2レースに挑戦していた桑島さんの応援でしばらくイギリスに滞在したことはあるけどアメリカは初めて。   その昔。自分は乗れなくて悔しい思いをしたけど、幼いアメリカ人の子供たちが楽しそうに乗っていた屋根のないエンジン付きの自動車がある国へ行く。

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45年ぶりの再会
最近の解良さんは1時期日本のモータースポーツの華だった
GCマシンのレストアに取り組んでいる
ボクはと言えば
クルマを動かすことへの興味がが薄れず
自分の経験と知識を伝え残す作業を続けている

 

<続く>