第474回 ひと区切り (中)
2018年5月3日の阿讃サーキットでのルノークラブ走行会
2017年5月3日にここで右目の視力を失い
2018年4月に眼内レンズの手術
右目に視力が戻ってから四国の山並みを走ることができた
手術前に森先生から右眼内レンズの摘出と右眼硝子体の切除を行うと説明があった。角膜の周囲を切開して眼内レンズを切除し、強膜に3つの穴をあけ器具を挿入して硝子体を切除するという。初めてのことばかりで診察から手術台に乗るまであれよあれよという感じで、けれど、消毒液を絶えずかけられているからはっきりとモノが見えない右目に激痛は走った。
当たり前のことだけど、自分の右目に何が行われているか全くわからず、次にどんな痛みが襲ってくるのか身構え身体が硬直する。息が止まる。それがわかるのか看護師さんが身体をさすってくれる。右目の黄土色の膜の向こうで何かが動いている。突如として、もちろん経験したことはないけど、死ぬほうがましの痛み。
痛みには強弱があって、時に突き刺すような痛みがきてつぎにむしられるような痛みが襲う。少ししてグヮングヮンという音が聞こえてくる。「あ、硝子体を吸引しているのかな」と痛みを感じながらも冷静さはあった。
とにかく最初から最後まで痛かった。手術がどんな風に行われていたかなんてわかるはずもなく、看護師さんの「もう少しですからね」という声を聴いくと身体の力が抜けた。
まぶたを開きっぱなしにする器具が外される、黄土色の膜はなくなって光がまぶしかった。ブランケット様のものも取り除かれる。点眼薬が落とされたあとでガーゼがあてられ眼帯。まだズキズキと痛む。
「ゆっくり起きて下さい」とうながされ車椅子に乗せられる。どのくらいの時間が経ったのだろうか。長いようで短く感じたが、左目で確認すると1時間近く手術室にいたようだ。
病室に戻りベッドに横になるように促される。左目は見えるから何かをするのに不自由はない。夕方術後の検査があるからそれまで安静にしているように言われる。検査の時に森先生にどのくらいの入院になるのかを聞いた。返事は驚きの「2週間ぐらいになるかな」。
こうして人生で初めての入院生活が始まった。1日4回の看護師さんによる点眼と、朝夕2回の森先生の診察。相変わらずズキズキと痛みはあるものの、痛みにも慣れ始め術後3日でシャワーにも入れるようになり、少しずつ生活のペースが戻ってきた。味気ない病院食は少し不満だったけど。
となると慌てなくてはいけないのは、5月11日(木)にFSWで開催するYRSxエンジンドライビングレッスンの段取り。入院は2週間だから自分は行くことができない。病室に持ち込んだパソコンでユイレーシングスクールの活動をサポートしてくれている卒業生で作っているメーリングリストに現状を報告し協力をお願いする。同時にスタッフのメーリングリストにも。エンジン編集部の塩沢副編集長にもメールを送り開催に向けての準備を始める。
スタッフと卒業生から当日手伝ってくれるという申し出が相次ぎ、開催を心配する必要はなくなった。急ぎFSWのジムカーナ場にオーバルコースを作る手順を書いて送り、午後のショートコース走行での注意事項を送る。編集部から届いた参加者名簿を元に当日のグループ分けをして送り返し、FSWにも計測用に送る。そうそう、ジムカーナ場にはホワイトボードがないので座学で使うイラストもpdfファイルで送って印刷してもらうことにした。ま、スタッフのYとKとYが行きますよ、といっているからあまり心配はないけど。
1人っきりの病室で思った。あの日、突然右目の視力を失ったのによく片目で運転ができたものだと。確かに不安はあったけど、いつもスクールで言っているように遠くを見てモノに焦点を合わせないようにしたけれど、四国の暗い道や不慣れな関西圏の入り乱れた高速道路を遅くない速度で走ったのだから、人間の適応力はたいしたものだと。
術後の検査を続けているとある日、右目が細菌におかされていないことを1年ぐらい観察してから眼内レンズを入れる予定だと聞かされた。そうか、1年ぐらいは片目で生活することになるのかと思ったものの、焦りはなかった。片目で合法的に運転できるわけだしスクールも開催できるのだから、ここは先生方に任せるしかないなと。
入院病棟の3階から本館の1階にあるコンビニへの往復は階段にした。シャワーを利用する時に洗濯をした。いつも後回しにしていた画像ファイルの整理もした。できるだけそれまでの生活と変わらないように心掛けた。唯一、手の届くところにウィスキーがないのが違いと言えば違い。
で、病室からアップしたのが第235回四国でルノークラブ走行会のブログ。
<続>
滋賀医大の正式名称は滋賀医科大学医学部附属病院
3階にある眼科
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