つまるところ、何をするにしても『4本しかないタイヤ』に頼る以外に方法はないわけで、クルマを走らせるにはキチンとタイヤが働いてくれる状況を維持し続ける必要がある。
ところが、人間という生き物はわがままだし勝手であるから、自分で頭に描いたイメージをついつい実行したくなる。場合によっては、そうすることによってクルマが思い通りに動かなくなる可能性が大きくても、だ。
最も顕著な例がスロットル。スロットルを開ければクルマは速く走るものだと刷り込まれているから、速く走ろうとするとスロットルを開けている時間が長くなる。サーキットでは特にそうだ。これでもかって勇気を振り絞ってスロットルを閉じるのを我慢している場面に出くわす。そのあとにブレーキングをしてターンインをするという重要な局面が控えていても、だ。
結局、フロントタイヤのグリップを十分生かしてブレーキングできないから速度は落ちず、そのままターンインするから4本のタイヤの上で対角線にクルマの加重が移動してアウト側前輪に加重が集中する状態を作り出してしまう。
タイヤがキチンと働ける状況というのは、トランジッションで『4本しかないタイヤ』が負担する過重がほぼ等しいことから生まれる。慣れればトランジッションの時間を短縮することはできるが、急ぐからと言ってトランジッションを省いてはタイヤが悲鳴をあげる。正確に言えば、『負担が増した1本のタイヤ』の『低くなった限界』でしか走ることができなくなる。それは目指すべきところではないはずだ。
ということで、YRSドライビングワークショップとYRSツーデースクールではフィギュア8をカリキュラムに取り入れている。8の字のコースをできるだけ速く走る練習だ。
加速をしてもすぐにコーナリングに移らなくてはならないし、加速しすぎれば強いブレーキングをしなければならないし、どれだけ加速すればいいのかを判断しながら走ることになる。つまり、後に控えた、〔直線の加速より旋回時のほうが間違いなく速度は遅いから、ターンイン時の速度と姿勢が速さを決める〕コーナリングのためには、どれだけ加速していいのか判断しなければならない。
加速しすぎればバランスを崩すし、加速しなければ遅い。その間のどこかに『美味しいところ』があるはずなのだが、いつも同じ速度でコーナーから脱出しているわけではないし脱出の方向も違うかもしれないから、常に加速の量を加減しなければならない。
そんな時の支えになるのが、ターンイン時にステアリングホイールから伝わってくるアウト側前輪が回転している様子。前に進んでいるのか横に滑っているのか、手のひらで感じることができる。クルマは正直。人間の操作に対して、常に『こうしたョ』と正確に教えてくれる。
もし聞く耳を持っているのならば、これほど楽しいことはない。クルマさんに相談すれば、正しいことは正しいと、間違っていることは間違っていると教えてくれるのだから。個人的には、この作業が楽しいからクルマに乗り続けていると言っても過言ではない。
ぜひカングーを含めたルノーオーナーの方も、フィギュア8を走りにユイレーシングスクールに参加して下さい。
#話は長くなるのだが、このビデオをスタッフに見せたら「Aが悪いほうでしょ。でも修正しちゃってますよね」と言われてしまった。過去にも卒業生に「手アンダーのところを撮りたいから」と言って走ってもらったのだが、一瞬アンダーステアが顔を出すのだが直後に修正してしまうので結局は撮れず。一度馴染んだ操作を変えるのは難しい。というわけで、Bが正解(操作は誇張しています)なのだが、Aもそれほど間違っていないというビデオになってしまった、というお話。
ユイレーシングスクールの今年の活動は全て終わった。2012年は27回のドライビングスクールとスクールレースを開催して延べ430名の方に参加していただいた。この場を借りて厚くお礼申しあげます。
さて、トゥィンゴGTに冬休みはなく、来年から始める新しいカリキュラムのテストのために遠征。
散水車を使って
コースを水浸しにして
富士山はいつ見てもステキ
来年どんなカリキュラムが始まるか、乞うご期待。
こんな競り合いもあって
日本が自動車先進国であることは誰もが認めるところだろうけれど、ことモータースポーツに関しては日本は後進国でしかない。
と言うと、フォーミュラニッポンがあるしGTレースもあるし日本人のF1ドライバーだっているではないか、と反論がありそうだが、少なくともアメリカと比べればその後進性は歴然としている。
確かにモータースポーツのピラミッドらしきものが形成されてはいるものの、そのスポーツの世界ランクレベルを目指す予備軍の数や、そしてそのスポーツを体験したことのある非傍観者の数で比べると日本の現状はいささか悲惨だ。
富士山を横目にレース三昧
モータースポーツ関係者はみんなそれぞれに頑張っているし、それは良くわかってはいるのだが、どこかに理由があるはずなのだ。
そう。個人的に導き出した結論を先に言えば、モータースポーツを司るスポーツ権能が日本にはひとつしかないことに問題がある。FIAの規定で各国のスポーツ権能(ASNと呼ぶ)は原則ひとつと定められているが、モータースポーツを発展させるためにはひとつでは足りないこともある。FIAも例外を認めているくらいだ。
実際、アメリカにはストックカーレースにはNASCARが、インディカーにはIRLが、ドラッグレースにはNHRAといった具合に主だったところだけで6つのスポーツ権能が存在する。それが複数あるのはアメリカだけではない。オーストラリアにもカナダにもイギリスにもだ。
ひとつということは、それ以外は存在しないわけで、そこにピラミッドの底辺が広がらない原因がある。日本のスポーツ権能に認められたものが公認で、されないものは非公認というわけだ。しかも日本のスポーツ権能は、1990年代終わり(ついこの前だ)まで非公認競技も非公認参加者も認めなかったといういささか乱暴な歴史の上に存在する。
1コーナーになだれ込む
ユイレーシングスクールがスクールレースを始めたのは2001年。前々年に国会で取り上げられたことから、非公認競技への締め付けがゆるくなり、その後はなしくずし的に公認、非公認の枠がはずされるだろうとの情報を得たからだ。
ユイレーシングスクールのスクールレースに参加したドライバーが公認のライセンスを剥奪されてはかなわない。いわゆる非公認競技であるYRSスクールレースを開催しようとしたら横槍が入ったでは参加者も集まるわけがない。
狙っていたわけではないが、幸いにしてユイレーシングスクールは「モータースポーツをもっと手軽に、もっと楽しく、もっとみんなで」のスローガンを堂々と掲げながらスタートを切ることができた。
万年青年の大森さん
2001年から非公認競技のタイムトライアルとエンデューロ、スプリントのレースを開催し、満を持して始めたのが2004年のYRSオーバルレースシリーズ。幾度かコースレイアウトを変えながらも9年が経過した。簡単なようで難しい自動車競技だから参加者数が大幅に増えることは期待していないものの、少しずつ仲間も増え始めた。
たとえば大森さん。2000年1月に開催した第2回YRSドライビングスクールを受講してくれたのだけれど、その後ユイレーシングスクールが開催する非公認モータースポーツには全て毎回のように参加してくれている。もう13年になる。クルマも当時のままだから、クルマさんも幸せだ。
日本で最も敷居が低く、もっとも手軽に楽しめるモータースポーツだと自負しているYRSオーバルレース。10年目を迎える来年、みなさんも参加してみませんか?
今年最後のレースを富士山も見送ってくれて
2012年YRSオーバルレースの最終戦。下は27歳から上はン歳まで平均年齢44歳のレーシングドライバーが参加してくれた。
というわけで、そのレースのAクラスの動画をご覧いただきたい。
・セミファイナル
・ファイナルヒート
ところで、『(F1好きの)佐藤さんが音頭をとるなりして、ルノー・ジャポンから可夢偉選手がルノーのシートを手に入れられるように働きかけることはできないものだろうか』と、思うのはボクだけだろうか?
赤いトゥインゴGTがユイレーシングスクールに来てから2年。我が家にはルーテシアRSとGD1フィットとNA8ロードスターがあるからトゥインゴGTはスクールの時にしか出番はないが、それでもオドメーターの数字は30,000キロに達した。
トゥインゴGT大活躍の数字
YRSルノー・トゥインゴGTは、受講生に試乗してもらったり、FRしか乗ったことのない人にFFを味わってもらったり、リードフォローのリードカーとして受講生を引っ張ったり、ドライビングポジションの説明に一役かったり、カメラカーとして車載映像を撮影したり、そしてなにより毎回重い機材を満載してスクールの準備にと大活躍している。
受講生の中にはルノートゥインゴを知らなかった人もいたから、ルノー・ジャポンの宣伝も担ったはずだ。
富士山を見にきたけど雲の中。刈り入れの終わった田んぼも物悲しい
トゥインゴGTは既に発売中止になってしまったけど、移動の道具としての価値が非常に高かっただけに残念ではある。GTに限らずトゥインゴがもっと繁殖していれば、日本の市場でもっとミニハッチの有用性を訴えることができたはず。
なにしろ、170キロ超でも乱れない直進性(サーキットでの話)、対角線に荷重移動が起きてもインリフトしないリジッドなボディとストローク十分な足(YRSオーバルでの話)、5速に入れたままズボラ運転ができる柔軟性(市街地と高速道路の話)。トゥインゴGTをそれこそ下駄代わりに使った身としては、ミニハッチとしては高めの価格設定だったとは言え、そのキャラクターをもっと大勢の人に知ってほしかった、とつくづく思う。
トゥインゴGTには赤が似合うと思うのは還暦を過ぎたから(笑)
クルマ離れが進んでいるとは聞くけど、個人的には車重1トンのボディに110馬力ぐらいののNAエンジンを搭載したような、自分で制御する楽しさを味わえるクルマが登場すれば、まだまだクルマ好きはほってはおかないと思うのだが。
FSWショートコースでのドライビングスクールで一緒にミーティング
今回もカメラカートして出動。YRSオーバルスクールの概要を知ってもらうために、半径22m直線60mのYRSオーバルFSWをインベタで、半径22m直線130mのYRSオーバルFSWロンガーを3速まで使ってアウトインアウトで走行して撮影した。
カメラカー その1
カメラカー その2
■ 撮影した動画がこれ
※ 次回のYRSオーバルスクールFSWは11月11日(日)開催。クルマを思い通りに動かすことに興味のある方はぜひご参加下さい。詳しくはユイレーシングスクールのYRSオーバルスクール案内頁をご覧下さい。
ユイレーシングスクールのスタッフの森田さんが新しいおもちゃを買った。乗ってみたかったので、無理を言って雨の中をYRSオーバルスクールに来てもらった。ホントはドライコンディションで乗りたかった、と言うと申し訳ないのだけれども、それでもルノー・スポールが市販したレーシングカーライクのスピダーの実力を垣間見ることはできた。森田さんに感謝。
トゥインゴGTと色使いが似てるかな
川が流れる路面を泳ぐ
広いトレッドは安定感抜群
車重が軽いからか姿勢変化はごくわずか
それでいてフロントタイヤのグリップを感じることができる
前後トレッドの和をホイールベースで割るとスピダーが1.3でトゥインゴGTが1.19
90キロプラスなのにディフューザーが効いているのが見える
リアビューはとてもグラマラス
とても市販車とは思えないポーズ
フロントのスペースフレームに落とし込むラッゲージパンを外した図
アルミ押し出し材のスペースフレームの奥に水平に配置されたコイルユニットが見える
アフターマーケット品なのかタコ足が魅力的なエンジンベイ。左右にプッシュロッド入力を受けるコイルユニットとドライバーが背中に背負うであろうラジエターが見える
4輪ダブルウィッシュボーン式サスペンションなのだがリアのそれはトレーリングアームに近い作動をする
ステアリングホイールはノンスタンダードだけどメーターは旧トゥインゴのそれ
FFのトゥインゴGTとミッドシップのスピダー
フランス車大好きの森田さんと
おしまい
1962年9月に完成した鈴鹿サーキットが50回目の誕生日を迎えた。2輪、4輪合わせて日本のモータースポーツは鈴鹿サーキットとともに成長したと言っても過言ではない。
ボクも発起人の末席を汚す“日本のモータースポーツを創ってきた人達の集い”も、育ててもらった鈴鹿サーキットのお祝いをするために50周年アニバーサリーデーの期間中に祝賀会を開いたので、トゥインゴGTで駆けつけた。
残暑厳しい9月。パドックにたたずむトゥインゴGT
当日集まったのはドライバー、ライダー、コンストラクター、メディア、オフィシャルなど総勢300名余り。既に現役を退かれた方も現役を貫いている方も、懐かしい顔がひとつの屋根の下に集まった。ホントにしばらくぶりに会った人も、昔の話になると笑顔、笑顔、笑顔。
※日本のモータースポーツを創ってきた人達の集い
50年という年月は決して短くはない
「こんなことがあった」、「あんなこともあった」。どの顔にも、頭の中では次から次へととんでもない量の思いが巡っているの見てとれた。言葉にできるのは、もどかしいほどにそのほんの一部でしかないのだけれど。穏やかな空気があふれていた。
ボクは1979年に日本を脱出してしまったので欠席日数は多いものの、いつも意識は日本のモータースポーツとともにあった。30年余りアメリカで経験した合理的な思想は、今ユイレーシングスクールに息づいているはずだ。
1963年第1回日本GPに参加した大久保力さんが開会を宣言
日本のモータースポーツも技術力では世界に伍するまで発展を続けて来たものの、その道は決して平坦ではなかった。タイヤが2本であれ4本であれ、人を乗せて走る機械をより速く走らせることに目を輝かせた人達が悩みながら日本のレース界と一緒に大きくなった。
祝賀会の記念品その1
※50周年を記念して作られた本の中には自分のあの頃の情景がまざまざと
祝賀会の記念品その2
※当日のクレデンシャルは向こう1年間、日本GPと8耐を除く全レースに有効なフリーパスを兼ねていた
1963年第1回日本GPに参加されたおふたかたと
※写真中央の津々見友彦さんはDKV900で、写真右の西園寺公作さんはルノー4CVでC3クラスに参加された。津々見さんはジャーナリストの先輩でもあり、ボクがアメリカに住むことになったきっかけを作ってくれたひとり。初めてお話させていただいた西園寺さんは、なんと第1回日本GPの前にも公道を使ったレースに参加されていた。驚き。
見るだけで胸が高鳴ったクルマ達の1
見るだけで胸が高鳴ったクルマ達の2
見るだけで胸が高鳴ったクルマ達の3
見るだけで胸が高鳴ったクルマ達の4
2日間の鈴鹿サーキット50周年アニバーサリーデーに集まった観衆は6万2千人余り。これからも鈴鹿サーキットは多くの人々を魅了するだろうし、またより多くの人にモータースポーツの魅力に触れてほしいと思った一日だった。