第115回 加速度のすすめ
パスポートに押されたスタンプを数えてみると、今までに101回日本とアメリカを往復していた。うち1回は取材を兼ねて千葉港からバンクーバー経由でポートランドまで自動車輸出専用船で海を渡ったので、100回と半分を飛行機で往復したことになる。その飛行機にまつわる話。
あれこれ思い出しながら出入国記録を見ていたのだが、今さらながらに文明の利器である飛行機の偉大さを感じた。移動に費やす時間さえいとわなければ、座っているだけで苦もなく太平洋を飛び越えることができる。飛行機という移動手段がなければ、20代の頃に日本を脱出しようとは考えなかったに違いない。
しかし、クルマと同じく人間の生活圏を拡大してくれる道具ではあるけれど、実は飛行機に乗ることはあまり楽しくはなかった。小学生のころから模型飛行機に夢中で翼の真ん中が膨らんでいることも知っていたし、後に翼が揚力を生むことも学んだ。理屈ではわかっているつもりなのだが、あの重たい機体が空に舞い上がる道理が今ひとつ生理的に納得できない。飛行機に乗っていれば床は確かにそこにあるけれど、自分の身体が宙に浮いていることには変わらず不安は消せない。
だから、無理やり目的地に着いてからの予定を想像することで気分を紛らわせてシートに座るのが常だったが、実はひそかな楽しみもあったりする。乗っている飛行機が生み出す加速度だ。
何度も往復しているうちにいろいろなことを経験した。偏西風が強い冬は日本からアメリカに向かう時の所要時間が短くなるが、逆に日本行きは時間がかかってしまう。
実際、離陸後に機長が「ご搭乗ありがとうございました。今日は偏西風が強く・・・」とアナウンスした時は成田からロサンゼルスまで8時間を切ることがあった。税関を出たら待ち合わせの時間より小1時間も早く、時間をもてあましたことも覚えている。
アメリカに向かったある日。座席前のモニターに映し出される対地速度が瞬間的に1,030キロを超えたこともあった。いつもは960~980キロだからかなり追い風が強かったに違いない。
時速1,000キロといえばとんでもない速さだ。しかし、その速さを実感できるかと言うとそうでもない。離陸や着陸の時に窓の外を流れる景色をみればその速さを相対的に感じることができるのだが、上昇してし巡航に移ってしまうと、自分がそんな速度で移動しているなんてイメージすることは難しい。
しかし加速度には、あくまでも個人的な印象ではあるけど、実体がある。
例えばテイクオフ。その日によってフライングスタートであったりスタンディングスタートであったりするのだが、あの巨体が速度を上げていく時間は大のお気に入り。だから、あの加速感をもらさず全身で感じるために、エンジンがうなりを上げ始めると、つま先を上げシートに深く座り直したものだ。
加速度そのものは高々0.2Gぐらいなものだろうが、自分の中に加速度を感じられるあの時間は好きだ。
速度が速くなると加速しているはずなのに加速感が薄れる。飛び立ったわけではないのに重力が小さくなった」ように感じる。窓がビリビリと音を立てる。加速度が弱まったのではなく、大きな飛行機全体が作る空間が加速に慣れたからかな、と想像したり。
ゴゴッと音がして機体が浮いたことがわかる。上昇をするものだと思っていても、ほんの少しだけ上に向かうよりも前方に押し出されている感じが続いたり。
飛行機は地表を離れても加速しながら上昇を続ける。水平飛行に移ってたなと思っても加速しているなと感じることもある。逆に、明らかに減速していることもある。飛行機の飛ぶ速度での空気抵抗は想像できないくらい大きいはずだから、加速をやめるだけでもマイナスGを感じるのかな、などと考えるのも楽しいものだ。
着陸を前にシートベルト着用のサインが出ると、再び座り直すのが常だった。
下降を始めるということは速度を落としているということだからマイナスGを感じてもよさそうなものだが、飛行機の大きさに比べて人間が小さいのでそれと感じられないのかなと思ってみたり、窓の外にパノラマが広がりだすと速度は落ちているはずなのに相対的に速くなっているように思えたり。
黒々とブラックマークのついた滑走路を下に見て行き過ぎじゃないのと心配したりするけど、着地のショックの大きさにこそ差はあれこれまで怖い思いはしたことがない。
それより、着地してからの減速も圧巻だ。飛行機が着地したと感じた瞬間スポイラー立ち上がり、次いで逆噴射が始まる。空中では感じることができないマイナスGを受けながら、さらに、離陸時には感じない微妙な横Gがおそってくる。
その縦と横の加速度の大きさは毎回異なるが、巨体が身をよじるように減速する様は感動すら覚えるものだ。
西海岸に沿って南下した飛行機はいったん東に向きを変えった後にどこかの地点でUターンする。東からロサンゼルス空港に進入する飛行機の隊列にまぎれこむためだ。この時に感じる加速度も捨てがたい。
マイナスのGを感じながら、自分の身体が軽くなったように感じることで降下しているのを実感していると、機体が右に傾きだす。右側に座っていると窓いっぱいにダウンタウンが広がる。
バンク角はどんどん深くなり、同時に自分が重くなる。とても複雑な慣性力が働いているのを想像できるから言葉にするのが難しいけれど、飛行機が減速をしながら円運動の外側に流されていっているような感じだ。それでも旋回の後半は遠心力に負けているように感じないから、おそらく、ある時点で飛行機もラインに乗れるのだろう。
結局、速いものに対する憧れはあっても、速さを心地よさに置き換えることは難しい。地上での時速1,000キロが現実的でないように、だ。我々自身が速さを無制限に享受することも不可能だ。しかし加速度は、いついかなる時でも感じようと思えば感じることができる。
そしてプラスであれマイナスであれ、あるいは横Gであれ、加速度はクルマの姿勢変化に大きく影響する。加速度を意識することもクルマの楽しみの大きな部分を占める。身近な人間能力拡大器であるクルマ。味あわなければもったいない。
時まさに、メガーヌRSトロフィーRの発表。
馬力あたり荷重はメガーヌRSの5.4Kg対トロフィーRの4.75Kg。どんな世界が待っているか楽しみではある。
余談をひとつ。左側の窓際に座ってロサンゼルス空港に近づいた時のこと。例のバンクが終わって水平飛行に移ったその瞬間。左隣にもう1機飛行機がいて声を上げそうになったことがある。なんのことはない。3本の滑走路が並行して走っているロサンゼルス空港への進入で、たまたま同じタイミングの飛行機に出くわしただけだった。
余談をもうひとつ。ある日、成田を離陸してから30分ぐらい経った頃に機材故障のため引き返しますというアナウンス。どこに不具合があるのかの説明はなし。この時ばかりはCAに状況の説明を迫った。いやな思いをしたのはこの時だけ。確率は201分の1というところか。
※今回はYRSスタッフの勝木 学さんの写真を使わせてもらいました。感謝です。